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史記 / 秦本紀

其十月,五大夫陵攻趙邯鄲。四十九年正月,益發卒佐陵。陵戰不善,免,王齕代將。其十月,將軍張唐攻魏,為蔡尉捐弗守,還斬之。五十年十月,武安君白起有罪,為士伍,遷陰密。張唐攻鄭,拔之。十二月,益發卒軍汾城旁。武安君白起有罪,死。齕攻邯鄲,不拔,去,還奔汾軍。二月餘攻晉軍,斬首六千,晉楚流死河二萬人。攻汾城,即從唐拔寧新中,寧新中更名安陽。初作河橋。五十一年,將軍摎攻韓,取陽城、負黍,斬首四萬。攻趙,取二十餘縣,首虜九萬。西周君背秦,與諸侯約從,將天下銳兵出伊闕攻秦,令秦毋得通陽城。於是秦使將軍摎攻西周。西周君走來自歸,頓首受罪,盡獻其邑三十六城,口三萬。秦王受獻,歸其君於周。五十二年,周民東亡,其器九鼎入秦。周初亡。五十三年,天下來賓。魏後,秦使摎伐魏,取吳城。韓王入朝,魏委國聽令。五十四年,王郊見上帝於雍。五十六年秋,昭襄王卒,子孝文王立。尊唐八子為唐太后,而合其葬於先王。韓王衰絰入弔祠,諸侯皆使其將相來弔祠,視喪事。孝文王元年,赦罪人,修先王功臣,褒厚親戚,弛苑囿。孝文王除喪,十月己亥即位,三日辛丑卒,子莊襄王立。

新字:其十月,五大夫陵攻趙邯鄲。四十九年正月,益発卒佐陵。陵戦不善,免,王齕代将。其十月,将軍張唐攻魏,為蔡尉捐弗守,還斬之。五十年十月,武安君白起有罪,為士伍,遷陰密。張唐攻鄭,抜之。十二月,益発卒軍汾城旁。武安君白起有罪,死。齕攻邯鄲,不抜,去,還奔汾軍。二月余攻晋軍,斬首六千,晋楚流死河二万人。攻汾城,即従唐抜寧新中,寧新中更名安陽。初作河橋。五十一年,将軍摎攻韓,取陽城、負黍,斬首四万。攻趙,取二十余県,首虜九万。西周君背秦,与諸侯約従,将天下鋭兵出伊闕攻秦,令秦毋得通陽城。於是秦使将軍摎攻西周。西周君走来自帰,頓首受罪,尽献其邑三十六城,口三万。秦王受献,帰其君於周。五十二年,周民東亡,其器九鼎入秦。周初亡。五十三年,天下来賓。魏後,秦使摎伐魏,取呉城。韓王入朝,魏委国聴令。五十四年,王郊見上帝於雍。五十六年秋,昭襄王卒,子孝文王立。尊唐八子為唐太后,而合其葬於先王。韓王衰絰入弔祠,諸侯皆使其将相来弔祠,視喪事。孝文王元年,赦罪人,修先王功臣,褒厚親戚,弛苑囿。孝文王除喪,十月己亥即位,三日辛丑卒,子荘襄王立。

書き下し

其の十月、五大夫陵趙の邯鄲を攻む。四十九年正月、益卒を発して陵を佐く。陵の戦ひ善からず、免ぜられ、王齕代はりて将たり。其の十月、将軍張唐魏を攻む。蔡尉捐弗守と為し、還りて之を斬る。五十年十月、武安君白起罪有り、士伍と為り、陰密に遷さる。張唐鄭を攻め、之を抜く。十二月、益卒を発して汾城の旁らに軍す。武安君白起罪有りて、死す。齕邯鄲を攻むるも、抜かず、去りて、還りて汾の軍に奔る。二月余晋の軍を攻め、首を斬ること六千。晋・楚の流れて河に死する者二万人。汾城を攻め、即ち唐に従ひて寧新中を抜く。寧新中名を安陽と更む。初めて河橋を作る。五十一年、将軍摎韓を攻め、陽城・負黍を取り、首を斬ること四万。趙を攻め、二十余県を取り、首虜九万。西周の君秦に背き、諸侯と従を約し、天下の鋭兵を将ゐて伊闕を出でて秦を攻め、秦をして陽城に通ずるを得毋からしめんとす。是に於て秦将軍摎をして西周を攻めしむ。西周の君走り来たりて自ら帰し、頓首して罪を受け、尽く其の邑三十六城、口三万を献ず。秦王献を受け、其の君を周に帰す。五十二年、周の民東に亡げ、其の器九鼎秦に入る。周初めて亡ぶ。五十三年、天下来賓す。魏後る。秦摎をして魏を伐たしめ、呉城を取る。韓王入朝し、魏国を委ねて令を聴く。五十四年、王上帝を雍に郊見す。五十六年秋、昭襄王卒し、子孝文王立つ。唐八子を尊びて唐太后と為し、而して其の葬を先王に合す。韓王衰絰して入りて弔祠す。諸侯皆其の将相をして来たりて弔祠せしめ、喪事を視しむ。孝文王の元年、罪人を赦し、先王の功臣を修め、親戚を褒厚し、苑囿を弛む。孝文王喪を除き、十月己亥に即位し、三日辛丑に卒し、子荘襄王立つ。

現代語訳

その年の十月、五大夫の王陵が趙の都の邯鄲を攻めた。四十九年正月、さらに兵を出して王陵を助けた。王陵の戦いぶりがよくなかったので罷免され、王齕が代わって将となった。その十月、将軍の張唐が魏を攻めた。蔡尉の捐が持ち場を守らなかったとして、帰還してから斬った。五十年十月、武安君白起は罪を問われて一兵卒に落とされ、陰密に移された。張唐が鄭を攻め、これを落とした。十二月、さらに兵を出して汾城のそばに陣を置いた。武安君白起は罪を問われて死を賜った。王齕は邯鄲を攻めたが落とせず、撤退して汾城の軍に逃げ帰った。二か月余りして晋(魏)の軍を攻め、六千の首を斬った。晋と楚の兵で黄河に流されて死んだ者は二万人に及んだ。汾城を攻め、そのまま張唐に従って寧新中を落とした。寧新中を安陽と改名した。はじめて黄河に橋を架けた。五十一年、将軍の摎が韓を攻め、陽城と負黍を取り、四万の首を斬った。趙を攻め、二十余りの県を取り、斬首と捕虜は九万に及んだ。西周の君は秦に背き、諸侯と合従の盟約を結び、天下の精鋭を率いて伊闕から出て秦を攻め、秦が陽城に通じられないようにしようとした。そこで秦は将軍の摎に西周を攻めさせた。西周の君は逃げてきて自ら秦に帰順し、頭を地につけて罪を認め、その領地の三十六城と人口三万をすべて献上した。秦王は献上を受け、その君を周に帰した。五十二年、周の民は東へ逃げ去り、周の宝器である九鼎は秦に入った。周はここにはじめて滅んだ。五十三年、天下の諸侯が来朝した。魏は遅れて来た。秦は摎に魏を討たせ、呉城を取った。韓王は入朝し、魏は国を委ねて秦の命令に従った。五十四年、王は雍で上帝を郊祀した。五十六年の秋、昭襄王が亡くなり、子の孝文王が立った。孝文王は母の唐八子を尊んで唐太后とし、先王と合葬した。韓王は喪服を着て弔問に訪れた。諸侯もみな将軍や宰相を遣わして弔問させ、葬儀に参列させた。孝文王の元年、罪人を赦し、先王の功臣を顕彰し、親族を手厚く遇し、王の狩り場を開放した。孝文王は喪が明けて十月己亥の日に即位したが、三日後の辛丑の日に亡くなり、子の荘襄王が立った。

解説

長平の戦いの後の秦を描く段で、二つの大きな終わりが記されています。一つは名将白起の最期です。長平の勝利の後、白起は邯鄲攻めに反対して出陣を拒み、罪を問われて一兵卒に落とされ、ついに死を賜りました。代わりの将軍たちは邯鄲を落とせず、魏と楚の救援軍に敗れて撤退します。最大の功労者を失った後に、秦軍は大きな挫折を味わったのです。もう一つは周の滅亡です。西周の君が諸侯と組んで秦に反抗しましたが、秦に攻められて領地をすべて差し出し、九鼎は秦に運ばれて、周はここに終わりました。翌年には天下の諸侯が秦に来朝し、秦は事実上の天下の主となります。昭襄王の在位は五十六年に及び、その後を継いだ孝文王は即位わずか三日で亡くなりました。どれほど強い組織でも、功労者との関係がこじれれば大きな痛手を負います。成果を上げた人の意見と処遇にどう向き合うかは、組織の頂点に立つ者の重い課題です。

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