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史記 / 秦本紀

二十九年,大良造白起攻楚,取郢為南郡,楚王走。周君來。王與楚王會襄陵。白起為武安君。三十年,蜀守若伐楚,取巫郡,及江南為黔中郡。三十一年,白起伐魏,取兩城。楚人反我江南。三十二年,相穰侯攻魏,至大梁,破暴鳶,斬首四萬,鳶走,魏入三縣請和。三十三年,客卿胡陽攻魏卷、蔡陽、長社,取之。擊芒卯華陽,破之,斬首十五萬。魏入南陽以和。三十四年,秦與魏、韓上庸地為一郡,南陽免臣遷居之。三十五年,佐韓、魏、楚伐燕。初置南陽郡。三十六年,客卿灶攻齊,取剛、壽,予穰侯。三十八年,中更胡陽攻趙閼與,不能取。四十年,悼太子死魏,歸葬芷陽。四十一年夏,攻魏,取邢丘、懷。四十二年,安國君為太子。十月,宣太后薨,葬芷陽酈山。九月,穰侯出之陶。四十三年,武安君白起攻韓,拔九城,斬首五萬。四十四年,攻韓南陽,取之。四十五年,五大夫賁攻韓,取十城。葉陽君悝出之國,未至而死。四十七年,秦攻韓上黨,上黨降趙,秦因攻趙,趙發兵擊秦,相距。秦使武安君白起擊,大破趙於長平,四十餘萬盡殺之。四十八年十月,韓獻垣雍。秦軍分為三軍。武安君歸。王齕將伐趙皮牢,拔之。司馬梗北定太原,盡有韓上黨。正月,兵罷,復守上黨。

新字:二十九年,大良造白起攻楚,取郢為南郡,楚王走。周君来。王与楚王会襄陵。白起為武安君。三十年,蜀守若伐楚,取巫郡,及江南為黔中郡。三十一年,白起伐魏,取両城。楚人反我江南。三十二年,相穰侯攻魏,至大梁,破暴鳶,斬首四万,鳶走,魏入三県請和。三十三年,客卿胡陽攻魏巻、蔡陽、長社,取之。撃芒卯華陽,破之,斬首十五万。魏入南陽以和。三十四年,秦与魏、韓上庸地為一郡,南陽免臣遷居之。三十五年,佐韓、魏、楚伐燕。初置南陽郡。三十六年,客卿灶攻斉,取剛、寿,予穰侯。三十八年,中更胡陽攻趙閼与,不能取。四十年,悼太子死魏,帰葬芷陽。四十一年夏,攻魏,取邢丘、懐。四十二年,安国君為太子。十月,宣太后薨,葬芷陽酈山。九月,穰侯出之陶。四十三年,武安君白起攻韓,抜九城,斬首五万。四十四年,攻韓南陽,取之。四十五年,五大夫賁攻韓,取十城。葉陽君悝出之国,未至而死。四十七年,秦攻韓上党,上党降趙,秦因攻趙,趙発兵撃秦,相距。秦使武安君白起撃,大破趙於長平,四十余万尽殺之。四十八年十月,韓献垣雍。秦軍分為三軍。武安君帰。王齕将伐趙皮牢,抜之。司馬梗北定太原,尽有韓上党。正月,兵罷,復守上党。

書き下し

二十九年、大良造白起楚を攻め、郢を取りて南郡と為す。楚王走る。周君来たる。王楚王と襄陵に会す。白起武安君と為る。三十年、蜀の守若楚を伐ち、巫郡及び江南を取りて黔中郡と為す。三十一年、白起魏を伐ち、両城を取る。楚人我が江南に反く。三十二年、相の穣侯魏を攻め、大梁に至り、暴鳶を破り、首を斬ること四万。鳶走る。魏三県を入れて和を請ふ。三十三年、客卿胡陽魏の卷・蔡陽・長社を攻め、之を取る。芒卯を華陽に撃ち、之を破り、首を斬ること十五万。魏南陽を入れて以て和す。三十四年、秦魏・韓の上庸の地を与にして一郡と為し、南陽の免臣遷りて之に居る。三十五年、韓・魏・楚を佐けて燕を伐つ。初めて南陽郡を置く。三十六年、客卿灶斉を攻め、剛・寿を取り、穣侯に予ふ。三十八年、中更胡陽趙の閼与を攻むるも、取る能はず。四十年、悼太子魏に死し、帰りて芷陽に葬る。四十一年夏、魏を攻め、邢丘・懐を取る。四十二年、安国君太子と為る。十月、宣太后薨じ、芷陽の酈山に葬る。九月、穣侯出でて陶に之く。四十三年、武安君白起韓を攻め、九城を抜き、首を斬ること五万。四十四年、韓の南陽を攻め、之を取る。四十五年、五大夫賁韓を攻め、十城を取る。葉陽君悝出でて国に之き、未だ至らずして死す。四十七年、秦韓の上党を攻む。上党趙に降る。秦因りて趙を攻む。趙兵を発して秦を撃ち、相距ぐ。秦武安君白起をして撃たしめ、大いに趙を長平に破り、四十余万尽く之を殺す。四十八年十月、韓垣雍を献ず。秦の軍分かれて三軍と為る。武安君帰る。王齕将として趙の皮牢を伐ち、之を抜く。司馬梗北のかた太原を定め、尽く韓の上党を有つ。正月、兵罷め、復た上党を守る。

現代語訳

二十九年、大良造の白起が楚を攻め、楚の都の郢を取って南郡とした。楚王は逃げた。周の君が来朝した。王は楚王と襄陵で会見した。白起は武安君となった。三十年、蜀の太守の若が楚を討ち、巫郡と江南を取って黔中郡とした。三十一年、白起が魏を討ち、二つの城を取った。楚の人々が秦の江南で背いた。三十二年、宰相の穣侯が魏を攻め、大梁に至り、(韓の将軍)暴鳶を破り、四万の首を斬った。暴鳶は逃げた。魏は三つの県を献上して和睦を求めた。三十三年、客卿(他国出身の大臣)の胡陽が魏の卷・蔡陽・長社を攻め、これを取った。芒卯を華陽で攻めて破り、十五万の首を斬った。魏は南陽を献上して和睦した。三十四年、秦は魏と韓から得た上庸の地を合わせて一つの郡とし、南陽で奴隷身分から解放された者たちをそこに移住させた。三十五年、韓・魏・楚を助けて燕を討った。はじめて南陽郡を置いた。三十六年、客卿の灶が斉を攻め、剛と寿を取って、穣侯に与えた。三十八年、中更の胡陽が趙の閼与を攻めたが、取ることができなかった。四十年、悼太子が魏で亡くなり、遺体は秦に帰されて芷陽に葬られた。四十一年の夏、魏を攻め、邢丘と懐を取った。四十二年、安国君が太子となった。十月、宣太后が亡くなり、芷陽の酈山に葬られた。九月、穣侯は都を出て陶に行った。四十三年、武安君白起が韓を攻め、九つの城を落とし、五万の首を斬った。四十四年、韓の南陽を攻め、これを取った。四十五年、五大夫の賁が韓を攻め、十の城を取った。葉陽君悝は都を出て封国に向かったが、着く前に死んだ。四十七年、秦は韓の上党を攻めた。上党は趙に降った。秦はそこで趙を攻めた。趙も兵を出して秦を迎え撃ち、両軍はにらみ合った。秦は武安君白起に攻めさせ、長平で趙を大いに破り、四十余万人の捕虜をすべて殺した。四十八年十月、韓が垣雍を献上した。秦の軍は三つに分かれた。武安君は帰還した。王齕が将となって趙の皮牢を討ち、これを落とした。司馬梗は北の太原を平定し、韓の上党をすべて手に入れた。正月、兵を休め、再び上党を守った。

解説

秦が中国統一への決定的な歩みを進めた時期で、白起の戦功が頂点に達します。白起は楚の都の郢を落として南郡とし、楚は都を東へ移さざるを得なくなりました。その功で白起は武安君に封じられます。一方、宣太后の死を境に、その弟の穣侯魏冉は都を追われて封地の陶へ去りました。長く実権を握った外戚の時代が終わり、昭襄王が名実ともに政治の中心に立ったのです。そして運命の長平の戦いが起こります。韓の上党が秦に降るのを嫌って趙に帰属したことから、秦と趙が激突し、白起は趙軍を破って、降伏した四十余万人をすべて生き埋めにしたと伝えられます。戦国最大の戦いは、趙の国力を根こそぎ奪い、以後、秦に単独で対抗できる国はなくなりました。圧倒的な勝利でしたが、降伏した者まで殺し尽くしたことは、白起自身の運命にも暗い影を落とします。勝ち方がその後の評判と運命を決めるという点で、勝利の瞬間こそ判断が問われるのです。

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