史記 / 秦本紀
其秋,使甘茂、庶長封伐宜陽。四年,拔宜陽,斬首六萬。涉河,城武遂。魏太子來朝。武王有力好戲,力士任鄙、烏獲、孟說皆至大官。王與孟說舉鼎,絕臏。八月,武王死。族孟說。武王取魏女為后,無子。立異母弟,是為昭襄王。昭襄母楚人,姓羋氏,號宣太后。武王死時,昭襄王為質於燕,燕人送歸,得立。昭襄王元年,嚴君疾為相。甘茂出之魏。二年,彗星見。庶長壯與大臣、諸侯、公子為逆,皆誅,及惠文后皆不得良死。悼武王后出歸魏。三年,王冠。與楚王會黃棘,與楚上庸。四年,取蒲阪。彗星見。五年,魏王來朝應亭,復與魏蒲阪。六年,蜀侯煇反,司馬錯定蜀。庶長奐伐楚,斬首二萬。涇陽君質於齊。日食,晝晦。七年,拔新城。摢裏子卒。八年,使將軍羋戎攻楚,取新市。齊使章子,魏使公孫喜,韓使暴鳶共攻楚方城,取唐眛。趙破中山,其君亡,竟死齊。魏公子勁、韓公子長為諸侯。九年,孟嘗君薛文來相秦。奐攻楚,取八城,殺其將景快。十年,楚懷王入朝秦,秦留之。薛文以金受免。樓緩為丞相。十一年,齊、韓、魏、趙、宋、中山五國共攻秦,至鹽氏而還。秦與韓、魏河北及封陵以和。彗星見。楚懷王走之趙,趙不受,還之秦,即死,歸葬。十二年,樓緩免,穰侯魏冉為相。予楚粟五萬石。
新字:其秋,使甘茂、庶長封伐宜陽。四年,抜宜陽,斬首六万。渉河,城武遂。魏太子来朝。武王有力好戯,力士任鄙、烏獲、孟説皆至大官。王与孟説舉鼎,絶臏。八月,武王死。族孟説。武王取魏女為后,無子。立異母弟,是為昭襄王。昭襄母楚人,姓羋氏,号宣太后。武王死時,昭襄王為質於燕,燕人送帰,得立。昭襄王元年,厳君疾為相。甘茂出之魏。二年,彗星見。庶長壮与大臣、諸侯、公子為逆,皆誅,及恵文后皆不得良死。悼武王后出帰魏。三年,王冠。与楚王会黄棘,与楚上庸。四年,取蒲阪。彗星見。五年,魏王来朝応亭,復与魏蒲阪。六年,蜀侯煇反,司馬錯定蜀。庶長奐伐楚,斬首二万。涇陽君質於斉。日食,昼晦。七年,抜新城。摢裏子卒。八年,使将軍羋戎攻楚,取新市。斉使章子,魏使公孫喜,韓使暴鳶共攻楚方城,取唐眛。趙破中山,其君亡,竟死斉。魏公子勁、韓公子長為諸侯。九年,孟嘗君薛文来相秦。奐攻楚,取八城,殺其将景快。十年,楚懐王入朝秦,秦留之。薛文以金受免。楼緩為丞相。十一年,斉、韓、魏、趙、宋、中山五国共攻秦,至塩氏而還。秦与韓、魏河北及封陵以和。彗星見。楚懐王走之趙,趙不受,還之秦,即死,帰葬。十二年,楼緩免,穰侯魏冉為相。予楚粟五万石。
書き下し
其の秋、甘茂・庶長封をして宜陽を伐たしむ。四年、宜陽を抜き、首を斬ること六万。河を渉り、武遂に城く。魏の太子来朝す。武王力有りて戯を好む。力士任鄙・烏獲・孟説皆大官に至る。王孟説と鼎を挙げ、臏を絶つ。八月、武王死す。孟説を族す。武王魏の女を取りて后と為すも、子無し。異母弟を立つ。是を昭襄王と為す。昭襄の母は楚人にして、姓は羋氏、宣太后と号す。武王の死せし時、昭襄王燕に質為り。燕人送り帰し、立つを得たり。昭襄王の元年、厳君疾相と為る。甘茂出でて魏に之く。二年、彗星見る。庶長壮大臣・諸侯・公子と逆を為し、皆誅せらる。恵文后に及ぶまで皆良死を得ず。悼武王の后出でて魏に帰る。三年、王冠す。楚王と黄棘に会し、楚に上庸を与ふ。四年、蒲阪を取る。彗星見る。五年、魏王来たりて応亭に朝す。復た魏に蒲阪を与ふ。六年、蜀侯煇反き、司馬錯蜀を定む。庶長奐楚を伐ち、首を斬ること二万。涇陽君斉に質たり。日食し、昼晦し。七年、新城を抜く。樗里子卒す。八年、将軍羋戎をして楚を攻めしめ、新市を取る。斉は章子をして、魏は公孫喜をして、韓は暴鳶をして共に楚の方城を攻めしめ、唐眛を取る。趙中山を破り、其の君亡げ、竟に斉に死す。魏の公子勁・韓の公子長諸侯と為る。九年、孟嘗君薛文来たりて秦に相たり。奐楚を攻め、八城を取り、其の将景快を殺す。十年、楚の懐王入りて秦に朝す。秦之を留む。薛文金を以て免るるを受く。楼緩丞相と為る。十一年、斉・韓・魏・趙・宋・中山の五国共に秦を攻め、塩氏に至りて還る。秦韓・魏に河北及び封陵を与へて以て和す。彗星見る。楚の懐王走りて趙に之く。趙受けず、之を秦に還す。即ち死し、帰葬す。十二年、楼緩免ぜられ、穣侯魏冉相と為る。楚に粟五万石を予ふ。
現代語訳
その秋、甘茂と庶長の封に宜陽を攻めさせた。四年、宜陽を落とし、六万の首を斬った。黄河を渡り、武遂に城を築いた。魏の太子が来朝した。武王は力が強く、力比べの遊びを好んだ。力士の任鄙・烏獲・孟説はみな高官に取り立てられた。王は孟説と鼎を持ち上げる力比べをして、すねの骨を折った。八月、武王は死んだ。孟説の一族は皆殺しにされた。武王は魏の娘を后としていたが、子がなかった。そこで異母弟を立てた。これが昭襄王である。昭襄王の母は楚の人で、姓は羋氏、宣太后と号した。武王が死んだとき、昭襄王は燕に人質として行っていた。燕の人々が送り帰したので、即位することができた。昭襄王の元年、厳君疾(樗里疾)が宰相となった。甘茂は秦を出て魏に行った。二年、彗星が現れた。庶長の壮が大臣・諸侯・公子らとともに反逆を企て、みな誅殺された。恵文王の后に至るまで、みなまともな死に方をしなかった。悼武王の后は秦を出て魏に帰った。三年、王が冠をつける成人の儀を行った。楚王と黄棘で会見し、楚に上庸を与えた。四年、蒲阪を取った。彗星が現れた。五年、魏王が来て応亭で朝見した。再び魏に蒲阪を与えた。六年、蜀侯の煇が背き、司馬錯が蜀を平定した。庶長の奐が楚を討ち、二万の首を斬った。涇陽君が斉に人質として行った。日食があり、昼間なのに暗くなった。七年、新城を落とした。樗里子(樗里疾)が亡くなった。八年、将軍の羋戎に楚を攻めさせ、新市を取った。斉は章子を、魏は公孫喜を、韓は暴鳶を遣わして、ともに楚の方城を攻め、(楚の将軍)唐眛を討ち取った。趙が中山を破り、中山の君主は逃げて、最後は斉で死んだ。魏の公子勁と韓の公子長が諸侯となった。九年、孟嘗君薛文が秦に来て宰相となった。奐が楚を攻め、八つの城を取り、その将軍景快を殺した。十年、楚の懐王が秦に来朝した。秦は懐王を引き留めて帰さなかった。薛文は金銭を贈って罷免されるだけで済んだ。楼緩が丞相となった。十一年、斉・韓・魏・趙・宋・中山の五か国がともに秦を攻め、塩氏まで来て引き返した。秦は韓と魏に河北と封陵の地を与えて和睦した。彗星が現れた。楚の懐王は秦から逃げて趙に行ったが、趙は受け入れず、秦に送り返した。懐王はそこで死に、遺体は楚に帰されて葬られた。十二年、楼緩が罷免され、穣侯魏冉が宰相となった。楚に穀物五万石を与えた。
解説
関連する章句
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史記 秦本紀十三年四月戊午、魏の君王と為り、韓も亦王と為る。張儀をして陝を伐ち取らしめ、其の人を出だして魏に与ふ。十四年、更めて元年と為す。二年、張儀斉・楚の大臣と齧桑に会す。三年、韓・魏の太子来朝す。張儀魏に相たり。五年、王游びて北河に至る。七年、楽池秦に相たり。韓・趙・魏・燕・斉匈奴を帥ゐて共に秦を攻む。秦庶長疾をして与に修魚に戦はしめ、其の将申差を虜にし、趙の公子渇・韓の太子奐を敗り、首を斬ること八万二千。八年、張儀復た秦に相たり。九年、司馬錯蜀を伐ち、之を滅ぼす。趙の中都・西陽を伐ち取る。十年、韓の太子蒼来たりて質たり。韓の石章を伐ち取る。趙の将泥を伐ち敗る。義渠の二十五城を伐ち取る。十一年、樗里疾魏の焦を攻め、之を降す。韓を岸門に敗り、首を斬ること万、其の将犀首走る。公子通蜀に封ぜらる。燕君其の臣子之に譲る。十二年、王梁王と臨晋に会す。庶長疾趙を攻め、趙の将荘を虜にす。張儀楚に相たり。十三年、庶長章楚を丹陽に撃ち、其の将屈丐を虜にし、首を斬ること八万。又楚の漢中を攻め、地六百里を取り、漢中郡を置く。楚雍氏を囲む。秦庶長疾をして韓を助けて東のかた斉を攻めしめ、到満をして魏を助けて燕を攻めしむ。十四年、楚を伐ち、召陵を取る。丹・犁臣とし、蜀の相壮蜀侯を殺して来降す。恵王卒し、子武王立つ。韓・魏・斉・楚・越皆賓従す。武王の元年、魏の恵王と臨晋に会す。蜀の相壮を誅す。張儀・魏章皆東に出でて魏に之く。義渠・丹・犁を伐つ。二年、初めて丞相を置き、樗里疾・甘茂を左右の丞相と為す。張儀魏に死す。三年、韓の襄王と臨晋の外に会す。南公揭卒し、樗里疾韓に相たり。武王甘茂に謂ひて曰く、「寡人容車もて三川に通じ、周室を窺はんと欲す。死すとも恨みず」と。
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史記 樗里子甘茂列伝甘茂をしてこれを撃たしむ。斬首六万、遂に宜陽を抜く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。武王竟に周に至りて、周に卒す。その弟立ち、昭王と為る。王の母宣太后は、楚の女なり。楚の懐王、前に秦の楚を丹陽に敗りて韓の救はざりしを怨み、乃ち兵を以て韓の雍氏を囲む。韓、公仲侈をして急を秦に告げしむ。秦の昭王新たに立ち、太后は楚人なれば、救ふを肯んぜず。公仲、甘茂に因る。茂、韓の為に秦の昭王に言ひて曰く、「公仲は方に秦の救ひを得る有らんとす、故に敢へて楚を捍ぐなり。今、雍氏囲まれ、秦の師殽を下らずんば、公仲且に首を仰ぎて朝せざらんとし、公叔且に国を以て南のかた楚に合せんとす。楚・韓一と為らば、魏氏敢へて聴かずんばあらず、然らば則ち秦を伐つの形成る。識らず、坐して伐たるるを待つと人を伐つの利といづれぞ」と。秦王曰く、「善し」と。乃ち師を殽に下して以て韓を救ふ。楚の兵去る。秦、向寿をして宜陽を平らげしめ、而して樗里子・甘茂をして魏の皮氏を伐たしむ。向寿は宣太后の外族なり、而して昭王と少くして相長ず、故に任用せらる。向寿、楚に如く、楚は秦の向寿を貴ぶを聞きて、厚く向寿に事ふ。向寿、秦の為に宜陽を守り、将に以て韓を伐たんとす。韓の公仲、蘇代をして向寿に謂はしめて曰く、「禽も困しめば車を覆す。公、韓を破り、公仲を辱めしも、公仲は国を収めてまた秦に事へ、自ら以為へらく必ず封ぜらるべしと。今、公は楚と解口の地を与へ、小令尹を封ずるに杜陽を以てす。秦楚合してまた韓を攻めば、韓必ず亡びん。韓亡びば、公仲且に躬ら其の私徒を率ゐて以て秦を閼がんとす。願はくは公これを孰慮せよ」と。向寿曰く、「吾の秦楚を合するは以て韓に当たるに非ざるなり。子、寿の為にこれを公仲に謁げて、秦韓の交は合すべしと曰へ」と。蘇代対へて曰く、「願はくは公に謁ぐる有らん。人曰く、その貴ぶ所以の者を貴ぶ者は貴しと。王の公を愛習するや、公孫奭に如かず。その公を智能とするや、甘茂に如かず。
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史記 秦本紀其の十月、五大夫陵趙の邯鄲を攻む。四十九年正月、益卒を発して陵を佐く。陵の戦ひ善からず、免ぜられ、王齕代はりて将たり。其の十月、将軍張唐魏を攻む。蔡尉捐弗守と為し、還りて之を斬る。五十年十月、武安君白起罪有り、士伍と為り、陰密に遷さる。張唐鄭を攻め、之を抜く。十二月、益卒を発して汾城の旁らに軍す。武安君白起罪有りて、死す。齕邯鄲を攻むるも、抜かず、去りて、還りて汾の軍に奔る。二月余晋の軍を攻め、首を斬ること六千。晋・楚の流れて河に死する者二万人。汾城を攻め、即ち唐に従ひて寧新中を抜く。寧新中名を安陽と更む。初めて河橋を作る。五十一年、将軍摎韓を攻め、陽城・負黍を取り、首を斬ること四万。趙を攻め、二十余県を取り、首虜九万。西周の君秦に背き、諸侯と従を約し、天下の鋭兵を将ゐて伊闕を出でて秦を攻め、秦をして陽城に通ずるを得毋からしめんとす。是に於て秦将軍摎をして西周を攻めしむ。西周の君走り来たりて自ら帰し、頓首して罪を受け、尽く其の邑三十六城、口三万を献ず。秦王献を受け、其の君を周に帰す。五十二年、周の民東に亡げ、其の器九鼎秦に入る。周初めて亡ぶ。五十三年、天下来賓す。魏後る。秦摎をして魏を伐たしめ、呉城を取る。韓王入朝し、魏国を委ねて令を聴く。五十四年、王上帝を雍に郊見す。五十六年秋、昭襄王卒し、子孝文王立つ。唐八子を尊びて唐太后と為し、而して其の葬を先王に合す。韓王衰絰して入りて弔祠す。諸侯皆其の将相をして来たりて弔祠せしめ、喪事を視しむ。孝文王の元年、罪人を赦し、先王の功臣を修め、親戚を褒厚し、苑囿を弛む。孝文王喪を除き、十月己亥に即位し、三日辛丑に卒し、子荘襄王立つ。
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史記 趙世家五年、韓の女を娶りて夫人と為す。八年、韓秦を撃つも、勝たずして去る。五国相王とす。趙独り否とし、曰く、「其の実無くして、敢へて其の名に処らんや」と。国人をして己を謂ひて「君」と曰はしむ。九年、韓・魏と共に秦を撃つ。秦我を敗り、首を斬ること八万級。斉我を観沢に敗る。十年、秦我が中都及び西陽を取る。斉燕を破る。燕の相子之君と為り、君反りて臣と為る。十一年、王公子職を韓より召し、立てて以て燕王と為し、楽池をして之を送らしむ。十三年、秦我が藺を抜き、将軍趙荘を虜にす。楚・魏の王来り、邯鄲を過る。十四年、趙何魏を攻む。十六年、秦の恵王卒す。王大陵に遊ぶ。他日、王夢に処女の琴を鼓して詩を歌ふを見る。曰く、「美人熒熒たり、顔は苕の栄の若し。命なるかな命なるかな、曾て我が嬴無し」と。異日、王酒を飲みて楽しみ、数々夢みし所を言ひ、其の状を想見す。呉広之を聞き、夫人に因りて其の女娃嬴を内る。孟姚なり。孟姚甚だ王に寵有り、是を恵后と為す。十七年、王九門に出で、野台を為り、以て斉・中山の境を望む。十八年、秦の武王孟説と龍文の赤鼎を挙げ、臏を絶ちて死す。趙王、代の相趙固をして公子稷を燕に迎へしめ、送り帰して、立てて秦王と為す、是を昭王と為す。十九年春正月、大いに信宮に朝す。肥義を召して与に天下を議し、五日にして畢る。王北のかた中山の地を略し、房子に至り、遂に代に之き、北のかた無窮に至り、西のかた河に至り、黄華の上に登る。
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史記 趙世家主父初め長子章を以て太子と為す。後に呉娃を得て、之を愛し、為に出でざること数歳。子何を生む。乃ち太子章を廃して何を立てて王と為す。呉娃死し、愛弛み、故の太子を憐み、両つながら之を王とせんと欲し、猶予して未だ決せず。故に乱起こり、以て父子倶に死し、天下の笑ひと為るに至る。豈に痛ましからずや。(主父死して恵文王立つ立つ)五年、燕に鄚・易を与ふ。八年、南行唐に城く。九年、趙梁将として、斉と軍を合して韓を攻め、魯関の下に至る。十年に及び、秦自ら置きて西帝と為る。十一年、董叔、魏氏と宋を伐ち、河陽を魏に得たり。秦保陽を取る。十二年、趙梁将として斉を攻む。十三年、韓徐将と為りて、斉を攻む。公主死す。十四年、相国楽毅、趙・秦・韓・魏・燕に将として斉を攻め、霊丘を取る。秦と中陽に会す。十五年、燕の昭王来り見ゆ。趙、韓・魏・秦と共に斉を撃つ。斉王敗走し、燕独り深く入り、臨菑を取る。十六年、秦復た趙と数々斉を撃つ。斉人之を患ふ。蘇厲斉の為に趙王に書を遺りて曰く、臣聞く、古の賢君は、其の徳行海内に布くに非ず、教順民人に洽きに非ず、祭祀時享鬼神に数常なるに非ず。甘露降り、時雨至り、年穀豊孰し、民疾疫せず、衆人之を善しとす。然れども賢主は之を図る。今足下の賢行功力は、数々秦に加ふるに非ず。怨毒積怒は、素より斉に深きに非ず。秦・趙与国となり、彊を以て兵を韓に徴す。秦誠に趙を愛するか。其れ実に斉を憎むか。物の甚だしき者は、賢主之を察す。秦は趙を愛して斉を憎むに非ず、韓を亡ぼして二周を呑まんと欲す。故に斉を以て天下を餤らはす。事の合はざらんことを恐る、故に兵を出だして以て魏・趙を劫かす。天下の己を畏れんことを恐る、故に質を出だして以て信と為す。天下の亟かに反かんことを恐る、故に兵を韓に徴して以て之を威す。
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