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史記 / 秦本紀

秦悼公立十四年卒,子厲共公立。孔子以悼公十二年卒。厲共公二年,蜀人來賂。十六年,塹河旁。以兵二萬伐大荔,取其王城。二十一年,初縣頻陽。晉取武成。二十四年,晉亂,殺智伯,分其國與趙、韓、魏。二十五年,智開與邑人來奔。三十三年,伐義渠,虜其王。三十四年,日食。厲共公卒,子躁公立。躁公二年,南鄭反。十三年,義渠來伐,至渭南。十四年,躁公卒,立其弟懷公。懷公四年,庶長朝與大臣圍懷公,懷公自殺。懷公太子曰昭子,蚤死,大臣乃立太子昭子之子,是為靈公。靈公,懷公孫也。靈公六年,晉城少梁,秦擊之。十三年,城籍姑。靈公卒,子獻公不得立,立靈公季父悼子,是為簡公。簡公,昭子之弟而懷公子也。簡公六年,令吏初帶劍。塹洛。城重泉。十六年卒,子惠公立。惠公十二年,子出子生。十三年,伐蜀,取南鄭。惠公卒,出子立。出子二年,庶長改迎靈公之子獻公于河西而立之。殺出子及其母,沈之淵旁。秦以往者數易君,君臣乖亂,故晉復彊,奪秦河西地。獻公元年,止從死。二年,城櫟陽。四年正月庚寅,孝公生。十一年,周太史儋見獻公曰:「周故與秦國合而別,別五百歲復合,合十七歲而霸王出。」十六年,桃冬花。十八年,雨金櫟陽。

新字:秦悼公立十四年卒,子厲共公立。孔子以悼公十二年卒。厲共公二年,蜀人来賂。十六年,塹河旁。以兵二万伐大荔,取其王城。二十一年,初県頻陽。晋取武成。二十四年,晋乱,殺智伯,分其国与趙、韓、魏。二十五年,智開与邑人来奔。三十三年,伐義渠,虜其王。三十四年,日食。厲共公卒,子躁公立。躁公二年,南鄭反。十三年,義渠来伐,至渭南。十四年,躁公卒,立其弟懐公。懐公四年,庶長朝与大臣囲懐公,懐公自殺。懐公太子曰昭子,蚤死,大臣乃立太子昭子之子,是為霊公。霊公,懐公孫也。霊公六年,晋城少梁,秦撃之。十三年,城籍姑。霊公卒,子献公不得立,立霊公季父悼子,是為簡公。簡公,昭子之弟而懐公子也。簡公六年,令吏初帯剣。塹洛。城重泉。十六年卒,子恵公立。恵公十二年,子出子生。十三年,伐蜀,取南鄭。恵公卒,出子立。出子二年,庶長改迎霊公之子献公于河西而立之。殺出子及其母,沈之淵旁。秦以往者数易君,君臣乖乱,故晋復彊,奪秦河西地。献公元年,止従死。二年,城櫟陽。四年正月庚寅,孝公生。十一年,周太史儋見献公曰:「周故与秦国合而別,別五百歳復合,合十七歳而覇王出。」十六年,桃冬花。十八年,雨金櫟陽。

書き下し

秦の悼公立つこと十四年にして卒し、子厲共公立つ。孔子悼公の十二年を以て卒す。厲共公の二年、蜀人来たりて賂す。十六年、河の旁らに塹す。兵二万を以て大荔を伐ち、其の王城を取る。二十一年、初めて頻陽を県とす。晋武成を取る。二十四年、晋乱れ、智伯を殺し、其の国を趙・韓・魏に分かつ。二十五年、智開邑人と来奔す。三十三年、義渠を伐ち、其の王を虜にす。三十四年、日食あり。厲共公卒し、子躁公立つ。躁公の二年、南鄭反く。十三年、義渠来たりて伐ち、渭南に至る。十四年、躁公卒し、其の弟懐公を立つ。懐公の四年、庶長朝大臣と懐公を囲む。懐公自殺す。懐公の太子を昭子と曰ふ、蚤く死す。大臣乃ち太子昭子の子を立つ。是を霊公と為す。霊公は、懐公の孫なり。霊公の六年、晋少梁に城く。秦之を撃つ。十三年、籍姑に城く。霊公卒し、子献公立つを得ず。霊公の季父悼子を立つ。是を簡公と為す。簡公は、昭子の弟にして懐公の子なり。簡公の六年、吏をして初めて剣を帯びしむ。洛に塹す。重泉に城く。十六年にして卒し、子恵公立つ。恵公の十二年、子出子生まる。十三年、蜀を伐ち、南鄭を取る。恵公卒し、出子立つ。出子の二年、庶長改霊公の子献公を河西に迎へて之を立つ。出子及び其の母を殺し、之を淵の旁らに沈む。秦往者数君を易へ、君臣乖乱するを以て、故に晋復た彊く、秦の河西の地を奪ふ。献公の元年、従死を止む。二年、櫟陽に城く。四年正月庚寅、孝公生まる。十一年、周の太史儋献公に見えて曰く、「周は故秦国と合して別る。別れて五百歳にして復た合し、合して十七歳にして霸王出でん」と。十六年、桃冬に花さく。十八年、金を櫟陽に雨らす。

現代語訳

秦の悼公は即位して十四年で亡くなり、子の厲共公が立った。孔子は悼公の十二年に亡くなった。厲共公の二年、蜀の人が来て貢ぎ物を贈った。十六年、黄河のほとりに堀を掘った。兵二万で大荔を討ち、その王城を取った。二十一年、はじめて頻陽を県とした。晋が武成を取った。二十四年、晋に内乱が起こり、智伯が殺され、その領地は趙・韓・魏に分けられた。二十五年、智開が領地の人々とともに秦に亡命してきた。三十三年、義渠を討ち、その王を捕らえた。三十四年、日食があった。厲共公が亡くなり、子の躁公が立った。躁公の二年、南鄭が背いた。十三年、義渠が攻めてきて渭水の南にまで至った。十四年、躁公が亡くなり、その弟の懐公を立てた。懐公の四年、庶長の朝が大臣たちとともに懐公を包囲した。懐公は自殺した。懐公の太子を昭子といったが、早く亡くなっていた。そこで大臣たちは太子昭子の子を立てた。これが霊公である。霊公は懐公の孫である。霊公の六年、晋が少梁に城を築いた。秦はこれを攻撃した。十三年、籍姑に城を築いた。霊公が亡くなったが、子の献公は立つことができなかった。霊公の叔父の悼子を立てた。これが簡公である。簡公は昭子の弟で、懐公の子である。簡公の六年、はじめて役人に剣を帯びさせた。洛水に沿って堀を掘った。重泉に城を築いた。簡公は十六年で亡くなり、子の恵公が立った。恵公の十二年、子の出子が生まれた。十三年、蜀を討ち、南鄭を取った。恵公が亡くなり、出子が立った。出子の二年、庶長の改が霊公の子の献公を河西から迎えて立てた。出子とその母を殺し、淵のほとりに沈めた。秦ではそれまでたびたび君主が替わり、君臣の関係が乱れていたので、晋が再び強くなり、秦の河西の地を奪った。献公の元年、殉死を禁じた。二年、櫟陽に城を築いた。四年正月庚寅の日、孝公が生まれた。十一年、周の太史の儋が献公に会って言った。「周はもともと秦と一つであったが分かれた。分かれて五百年たつとまた一つになり、一つになって十七年たつと覇王が現れるであろう。」十六年、桃の花が冬に咲いた。十八年、櫟陽に金が雨のように降った。

解説

春秋から戦国初期にかけて、秦が最も混乱した時代の記録です。懐公は重臣たちに包囲されて自殺し、その後も君主の廃立が重臣たちの意のままに行われました。幼い出子は即位二年で母とともに殺され、淵に沈められます。司馬遷は「たびたび君主が替わり、君臣の関係が乱れたので、晋が再び強くなって秦の河西の地を奪った」とまとめています。内部の混乱が、そのまま外部への弱さに直結したのです。その混乱の末に即位したのが献公でした。献公は即位するとすぐに殉死を禁じ、櫟陽に城を築いて都を東に進めます。古い悪習をやめ、拠点を前に移すという、再建の意志を示す改革でした。そして献公の治世に、後に商鞅を用いて秦を大改革する孝公が生まれます。周の太史儋の予言、冬に咲く桃、金の雨と、大きな変化の前触れも記されています。内紛で弱った組織を立て直すには、まず悪習を断ち、拠点を前に進める決断が必要なのです。

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