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史記 / 秦本紀

景公母弟後子鍼有寵,景公母弟富,或譖之,恐誅,乃奔晉,車重千乘。晉平公曰:「后子富如此,何以自亡?」對曰:「秦公無道,畏誅,欲待其後世乃歸。」三十九年,楚靈王彊,會諸侯於申,為盟主,殺齊慶封。景公立四十年卒,子哀公立。后子復來歸秦。哀公八年,楚公子棄疾弒靈王而自立,是為平王。十一年,楚平王來求秦女為太子建妻。至國,女好而自娶之。十五年,楚平王欲誅建,建亡;伍子胥奔吳。晉公室卑而六卿彊,欲內相攻,是以久秦晉不相攻。三十一年,吳王闔閭與伍子胥伐楚,楚王亡奔隨,吳遂入郢。楚大夫申包胥來告急,七日不食,日夜哭泣。於是秦乃發五百乘救楚,敗吳師。吳師歸,楚昭王乃得復入郢。哀公立三十六年卒。太子夷公,夷公蚤死,不得立,立夷公子,是為惠公。惠公元年,孔子行魯相事。五年,晉卿中行、范氏反晉,晉使智氏、趙簡子攻之,范、中行氏亡奔齊。惠公立十年卒,子悼公立。悼公二年,齊臣田乞弒其君孺子,立其兄陽生,是為悼公。六年,吳敗齊師。齊人弒悼公,立其子簡公。九年,晉定公與吳王夫差盟,爭長於黃池,卒先吳。吳彊,陵中國。十二年,齊田常弒簡公,立其弟平公,常相之。十三年,楚滅陳。

新字:景公母弟後子鍼有寵,景公母弟富,或譖之,恐誅,乃奔晋,車重千乗。晋平公曰:「后子富如此,何以自亡?」対曰:「秦公無道,畏誅,欲待其後世乃帰。」三十九年,楚霊王彊,会諸侯於申,為盟主,殺斉慶封。景公立四十年卒,子哀公立。后子復来帰秦。哀公八年,楚公子棄疾弒霊王而自立,是為平王。十一年,楚平王来求秦女為太子建妻。至国,女好而自娶之。十五年,楚平王欲誅建,建亡;伍子胥奔呉。晋公室卑而六卿彊,欲内相攻,是以久秦晋不相攻。三十一年,呉王闔閭与伍子胥伐楚,楚王亡奔随,呉遂入郢。楚大夫申包胥来告急,七日不食,日夜哭泣。於是秦乃発五百乗救楚,敗呉師。呉師帰,楚昭王乃得復入郢。哀公立三十六年卒。太子夷公,夷公蚤死,不得立,立夷公子,是為恵公。恵公元年,孔子行魯相事。五年,晋卿中行、范氏反晋,晋使智氏、趙簡子攻之,范、中行氏亡奔斉。恵公立十年卒,子悼公立。悼公二年,斉臣田乞弒其君孺子,立其兄陽生,是為悼公。六年,呉敗斉師。斉人弒悼公,立其子簡公。九年,晋定公与呉王夫差盟,争長於黄池,卒先呉。呉彊,陵中国。十二年,斉田常弒簡公,立其弟平公,常相之。十三年,楚滅陳。

書き下し

景公の母弟後子鍼寵有り。景公の母弟富む。或いは之を譖す。誅せられんことを恐れ、乃ち晋に奔る。車重千乗。晋の平公曰く、「后子富むこと此の如し、何を以て自ら亡ぐるや」と。対へて曰く、「秦公無道にして、誅を畏る。其の後世を待ちて乃ち帰らんと欲す」と。三十九年、楚の霊王彊く、諸侯を申に会し、盟主と為り、斉の慶封を殺す。景公立つこと四十年にして卒し、子哀公立つ。后子復た来たりて秦に帰る。哀公の八年、楚の公子棄疾霊王を弒して自立す。是を平王と為す。十一年、楚の平王来たりて秦の女を求めて太子建の妻と為さんとす。国に至るに、女好くして自ら之を娶る。十五年、楚の平王建を誅せんと欲す。建亡げ、伍子胥呉に奔る。晋の公室卑くして六卿彊く、内に相攻めんと欲す。是を以て久しく秦・晋相攻めず。三十一年、呉王闔閭伍子胥と楚を伐つ。楚王亡げて随に奔り、呉遂に郢に入る。楚の大夫申包胥来たりて急を告げ、七日食はず、日夜哭泣す。是に於て秦乃ち五百乗を発して楚を救ひ、呉の師を敗る。呉の師帰り、楚の昭王乃ち復た郢に入るを得たり。哀公立つこと三十六年にして卒す。太子夷公、夷公蚤く死して、立つを得ず。夷公の子を立つ。是を恵公と為す。恵公の元年、孔子魯の相事を行ふ。五年、晋の卿中行・范氏晋に反く。晋智氏・趙簡子をして之を攻めしむ。范・中行氏亡げて斉に奔る。恵公立つこと十年にして卒し、子悼公立つ。悼公の二年、斉の臣田乞其の君孺子を弒し、其の兄陽生を立つ。是を悼公と為す。六年、呉斉の師を敗る。斉人悼公を弒し、其の子簡公を立つ。九年、晋の定公呉王夫差と盟ひ、長を黄池に争ふ。卒に呉を先とす。呉彊く、中国を陵ぐ。十二年、斉の田常簡公を弒し、其の弟平公を立て、常之に相たり。十三年、楚陳を滅ぼす。

現代語訳

景公の同母弟の后子鍼は寵愛され、景公の同母弟として富んでいた。ある者が彼を讒言した。后子は誅されることを恐れて晋に逃げた。その車は千台に及んだ。晋の平公は言った。「后子はこれほど富んでいるのに、どうして自分から国を逃げ出したのか。」后子は答えた。「秦の君主は無道なので、誅されるのが恐ろしい。君主の代が替わるのを待ってから帰ろうと思っている。」三十九年、楚の霊王が強大になり、申で諸侯を集めて盟主となり、斉の慶封を殺した。景公は即位して四十年で亡くなり、子の哀公が立った。后子は再び秦に帰ってきた。哀公の八年、楚の公子棄疾が霊王を殺して自ら立った。これが平王である。十一年、楚の平王が秦に娘を求め、太子建の妻にしようとした。娘が楚に着くと、美しかったので平王は自分の妻にしてしまった。十五年、楚の平王は太子建を殺そうとした。建は逃げ、伍子胥は呉に逃げた。晋の公室は衰えて六卿が強くなり、国内で互いに争おうとしていた。そのため長い間、秦と晋は互いに攻め合わなかった。三十一年、呉王闔閭が伍子胥とともに楚を討った。楚王は随に逃げ、呉はついに楚の都の郢に入った。楚の大夫の申包胥が秦に来て危急を告げ、七日間食事もとらず、昼も夜も泣き続けた。そこで秦はついに兵車五百台を出して楚を救い、呉の軍を破った。呉の軍が帰国したので、楚の昭王は再び郢に入ることができた。哀公は即位して三十六年で亡くなった。太子は夷公であったが、夷公は早く亡くなり、即位できなかった。夷公の子を立てた。これが恵公である。恵公の元年、孔子が魯で宰相の職務を代行した。五年、晋の卿の中行氏と范氏が晋に背いた。晋は智氏と趙簡子にこれを攻めさせた。范氏と中行氏は斉に逃げた。恵公は即位して十年で亡くなり、子の悼公が立った。悼公の二年、斉の臣の田乞がその君主の孺子を殺し、孺子の兄の陽生を立てた。これが(斉の)悼公である。六年、呉が斉の軍を破った。斉の人々は悼公を殺し、その子の簡公を立てた。九年、晋の定公が呉王夫差と盟約を結び、黄池で盟主の座を争ったが、ついに呉を先にした。呉は強大となり、中原の国々をしのいだ。十二年、斉の田常が簡公を殺し、その弟の平公を立て、田常が宰相となった。十三年、楚が陳を滅ぼした。

解説

春秋時代の後半、秦がほぼ傍観者として諸国の激動を見つめていた時期の記録です。景公の弟の后子は、千台もの車に財産を積んで晋に逃げ、「君主が無道なので、代替わりを待って帰る」と平然と語りました。有力者が君主を見限って国外に退避する姿は、秦の内政の不安定さを示しています。この間、楚では平王が息子の嫁を奪って太子を追い、伍子胥が呉に逃れ、やがて呉が楚の都を落とします。楚の申包胥は秦の宮廷で七日七晩泣き続け、ついに秦を動かして楚を救いました。「秦庭の哭」として知られる故事です。晋では六卿が力を持ち、斉では田氏が君主を殺して実権を握るなど、各国で臣下が君主をしのぐ時代へと移っていきます。一人の人間が七日間泣き続けて大国を動かしたように、本気の熱意は時に利害の計算を超えて人を動かします。周囲の激動の中で、自分たちが何を選ぶのかが問われる時代でした。

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