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史記 / 秦本紀

繆公子四十人,其太子嵤代立,是為康公。康公元年。往歲繆公之卒,晉襄公亦卒;襄公之弟名雍,秦出也,在秦。晉趙盾欲立之,使隨會來迎雍,秦以兵送至令狐。晉立襄公子而反擊秦師,秦師敗,隨會來奔。二年,秦伐晉,取武城,報令狐之役。四年,晉伐秦,取少梁。六年,秦伐晉,取羈馬。戰於河曲,大敗晉軍。晉人患隨會在秦為亂,乃使魏讎餘詳反,合謀會,詐而得會,會遂歸晉。康公立十二年卒,子共公立。共公二年,晉趙穿弒其君靈公。三年,楚莊王彊,北兵至雒,問周鼎。共公立五年卒,子桓公立。桓公三年,晉敗我一將。十年,楚莊王服鄭,北敗晉兵於河上。當是之時,楚霸,為會盟合諸侯。二十四年,晉厲公初立,與秦桓公夾河而盟。歸而秦倍盟,與翟合謀擊晉。二十六年,晉率諸侯伐秦,秦軍敗走,追至涇而還。桓公立二十七年卒,子景公立。景公四年,晉欒書弒其君厲公。十五年,救鄭,敗晉兵於櫟。是時晉悼公為盟主。十八年,晉悼公彊,數會諸侯,率以伐秦,敗秦軍。秦軍走,晉兵追之,遂渡涇,至棫林而還。二十七年,景公如晉,與平公盟,已而背之。三十六年,楚公子圍弒其君而自立,是為靈王。

新字:繆公子四十人,其太子嵤代立,是為康公。康公元年。往歳繆公之卒,晋襄公亦卒;襄公之弟名雍,秦出也,在秦。晋趙盾欲立之,使随会来迎雍,秦以兵送至令狐。晋立襄公子而反撃秦師,秦師敗,随会来奔。二年,秦伐晋,取武城,報令狐之役。四年,晋伐秦,取少梁。六年,秦伐晋,取羈馬。戦於河曲,大敗晋軍。晋人患随会在秦為乱,乃使魏讎余詳反,合謀会,詐而得会,会遂帰晋。康公立十二年卒,子共公立。共公二年,晋趙穿弒其君霊公。三年,楚荘王彊,北兵至雒,問周鼎。共公立五年卒,子桓公立。桓公三年,晋敗我一将。十年,楚荘王服鄭,北敗晋兵於河上。当是之時,楚覇,為会盟合諸侯。二十四年,晋厲公初立,与秦桓公夾河而盟。帰而秦倍盟,与翟合謀撃晋。二十六年,晋率諸侯伐秦,秦軍敗走,追至涇而還。桓公立二十七年卒,子景公立。景公四年,晋欒書弒其君厲公。十五年,救鄭,敗晋兵於櫟。是時晋悼公為盟主。十八年,晋悼公彊,数会諸侯,率以伐秦,敗秦軍。秦軍走,晋兵追之,遂渡涇,至棫林而還。二十七年,景公如晋,与平公盟,已而背之。三十六年,楚公子囲弒其君而自立,是為霊王。

書き下し

繆公の子四十人、其の太子嵤代はりて立つ。是を康公と為す。康公の元年。往歳繆公の卒せしとき、晋の襄公も亦卒す。襄公の弟名は雍、秦の出なり、秦に在り。晋の趙盾之を立てんと欲し、随会をして来たりて雍を迎へしむ。秦兵を以て送りて令狐に至る。晋襄公の子を立てて反りて秦の師を撃つ。秦の師敗れ、随会来奔す。二年、秦晋を伐ち、武城を取り、令狐の役に報ゆ。四年、晋秦を伐ち、少梁を取る。六年、秦晋を伐ち、羈馬を取る。河曲に戦ひ、大いに晋の軍を敗る。晋人随会の秦に在りて乱を為すを患ひ、乃ち魏讎余をして詳りて反かしめ、会と合謀し、詐りて会を得たり。会遂に晋に帰る。康公立つこと十二年にして卒し、子共公立つ。共公の二年、晋の趙穿其の君霊公を弒す。三年、楚の荘王彊く、北のかた兵雒に至り、周の鼎を問ふ。共公立つこと五年にして卒し、子桓公立つ。桓公の三年、晋我が一将を敗る。十年、楚の荘王鄭を服し、北のかた晋の兵を河上に敗る。是の時に当たり、楚霸たり、会盟を為して諸侯を合す。二十四年、晋の厲公初めて立ち、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と合謀して晋を撃つ。二十六年、晋諸侯を率ゐて秦を伐つ。秦の軍敗走し、追ひて涇に至りて還る。桓公立つこと二十七年にして卒し、子景公立つ。景公の四年、晋の欒書其の君厲公を弒す。十五年、鄭を救ひ、晋の兵を櫟に敗る。是の時晋の悼公盟主為り。十八年、晋の悼公彊く、数諸侯を会し、率ゐて以て秦を伐ち、秦の軍を敗る。秦の軍走り、晋の兵之を追ひ、遂に涇を渡り、棫林に至りて還る。二十七年、景公晋に如き、平公と盟ひ、已にして之に背く。三十六年、楚の公子囲其の君を弒して自立す。是を霊王と為す。

現代語訳

穆公には四十人の子がいて、太子の嵤(よう)が代わって立った。これが康公である。康公の元年のことである。前の年に穆公が亡くなったとき、晋の襄公も亡くなった。襄公の弟は名を雍といい、母が秦の出身で、秦にいた。晋の趙盾は雍を君主に立てようとし、随会を遣わして雍を迎えに来させた。秦は兵をつけて雍を令狐まで送った。ところが晋は襄公の子を立て、逆に秦の軍を攻撃した。秦の軍は敗れ、随会は秦に亡命してきた。二年、秦は晋を討ち、武城を取って令狐の戦いの報復をした。四年、晋が秦を討ち、少梁を取った。六年、秦は晋を討ち、羈馬を取った。河曲で戦い、晋の軍を大いに破った。晋の人々は随会が秦にいて晋に害をなすことを心配し、魏讎余に偽って晋に背いたふりをさせ、随会と共謀するふりをしてだまし、随会を取り戻した。随会はついに晋に帰った。康公は即位して十二年で亡くなり、子の共公が立った。共公の二年、晋の趙穿がその君主の霊公を殺した。三年、楚の荘王が強大になり、北へ兵を進めて雒に至り、周の鼎について尋ねた。共公は即位して五年で亡くなり、子の桓公が立った。桓公の三年、晋が秦の将軍一人を破った。十年、楚の荘王が鄭を服従させ、北へ進んで黄河のほとりで晋の軍を破った。このころは楚が覇者となり、会盟を開いて諸侯を集めていた。二十四年、晋の厲公が即位したばかりのとき、秦の桓公と黄河を挟んで盟約を結んだ。ところが秦は帰国すると盟約に背き、翟と手を組んで晋を攻めた。二十六年、晋は諸侯を率いて秦を討った。秦の軍は敗走し、晋は涇水まで追って引き返した。桓公は即位して二十七年で亡くなり、子の景公が立った。景公の四年、晋の欒書がその君主の厲公を殺した。十五年、秦は鄭を救い、櫟で晋の軍を破った。このころ晋の悼公が盟主であった。十八年、晋の悼公は強大となり、たびたび諸侯を集めて、それを率いて秦を討ち、秦の軍を破った。秦の軍は逃げ、晋の兵はこれを追って、ついに涇水を渡り、棫林に至って引き返した。二十七年、景公は晋に行って平公と盟約を結んだが、やがてそれに背いた。三十六年、楚の公子囲がその君主を殺して自ら立った。これが霊王である。

解説

穆公の死後、康公から景公に至る約百年の秦の歩みを記した段です。穆公の時代に西戎の覇者となった秦ですが、その後は晋との小競り合いを延々と繰り返すことになります。康公の代には晋の後継者争いに介入して晋の公子を送り届けたものの、晋が方針を変えて別の君主を立て、逆に秦軍を攻撃しました。桓公は晋と結んだ盟約に帰国直後に背き、景公も晋との盟約に背いています。この時代の秦は、盟約を結んでは破り、勝っては負けるという消耗戦を続け、中原の諸侯を束ねる覇権は晋や楚に握られたままでした。偉大な創業者が去った後、後継者たちが目先の損得で約束を破り、隣の強敵との小さな勝ち負けに明け暮れる。こうした停滞は、組織が大きな方向性を見失ったときによく見られる姿です。秦が再び大きく飛躍するには、孝公と商鞅の改革を待たなければなりませんでした。

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