史記 / 秦本紀
三十九年、繆公卒し、雍に葬る。従死する者百七十七人、秦の良臣子輿氏三人名は奄息・仲行・鍼虎と曰ふ、亦た従死の中に在り。秦人之を哀しみ、為に黄鳥の詩を作る。君子曰、秦繆公地を広め国を益し、東のかた彊晉を服し、西のかた戎夷に霸たり、然れども諸侯の盟主と為らざるは、亦た宜なるかな。死して民を棄て、其の良臣を収めて従死せしむ。且つ先王崩ずるや、尚ほ猶ほ徳を遺し法を垂る、況んや之が善人良臣百姓の哀しむ所を奪ふをや。是を以て秦の復た東征する能はざるを知る。
新字:三十九年、繆公卒し、雍に葬る。従死する者百七十七人、秦の良臣子輿氏三人名は奄息・仲行・鍼虎と曰ふ、亦た従死の中に在り。秦人之を哀しみ、為に黄鳥の詩を作る。君子曰、秦繆公地を広め国を益し、東のかた彊晉を服し、西のかた戎夷に覇たり、然れども諸侯の盟主と為らざるは、亦た宜なるかな。死して民を棄て、其の良臣を収めて従死せしむ。且つ先王崩ずるや、尚ほ猶ほ徳を遺し法を垂る、況んや之が善人良臣百姓の哀しむ所を奪ふをや。是を以て秦の復た東征する能はざるを知る。
書き下し
三十九年、繆公卒し、雍に葬る。従死する者百七十七人、秦の良臣子輿氏三人名は奄息・仲行・鍼虎と曰ふ、亦た従死の中に在り。秦人之を哀しみ、為に黄鳥の詩を作る。君子曰く、「秦繆公地を広め国を益し、東のかた彊晉を服し、西のかた戎夷に霸たり、然れども諸侯の盟主と為らざるは、亦た宜なるかな。死して民を棄て、其の良臣を収めて従死せしむ。況んや之が善人良臣百姓の哀しむ所を奪ふをや。是を以て秦の復た東征する能はざるを知る」と。
現代語訳
「どれほど優れた功績を残した者でも、たった一つの過ちが、後々まで大きな損失を残す」——名君・繆公の、唯一にして重大な過ちを、後世が批判した一段です。秦の繆公は、賢者を用い、失敗を糧とし、西方の覇者にまで上りつめた、まぎれもない名君でした。しかし、その死に際して、彼は、取り返しのつかない過ちを犯します。彼が亡くなり、葬られたとき、なんと百七十七人もの臣下が、殉死(従死=主君の死に殉じて共に葬られること)させられたのです。しかも、その中には、奄息・仲行・鍼虎という、秦を支えた三人の優れた家臣(三良)まで含まれていました。国の宝ともいうべき有能な人材を、主君の死とともに、失わせてしまったのです。秦の人々は、これを深く悲しみ、三良の死を悼んで「黄鳥(こうちょう)の詩」を作りました。後世の君子たちは、この一件を、厳しく批判します。「繆公は、領土を広げ、国を富ませ、東は強国・晋を屈服させ、西は戎夷に覇を唱えた。それほどの功績がありながら、(天下の)諸侯の盟主となれなかったのは、(この殉死の一件を思えば)当然のことだ。死に際して、(殉死を強いて)民を見捨て、優れた家臣を道連れにした。(本来、)優れた王が亡くなるときには、後世に徳と手本を遺すものだ。それなのに、繆公は、逆に、善良な人材、優れた家臣という、人々が惜しむ宝を、(殉死で)奪ってしまった。だからこそ、(人材を失った)秦が、その後、東方へ進出できなくなったことも、うなずけるのだ」と。ここに、一つの過ちの重さについての教訓があります。第一に、どれほど優れた功績や実績を残した者でも、たった一つの重大な過ちが、それまでの評価を損ない、後々まで大きな損失を残しうるということ。繆公の輝かしい功績も、この殉死という一事で、「盟主たりえなかった」と批判された。生涯の総決算は、最後の過ちにも大きく左右される。第二に、とりわけ、優れた人材を失うこと(良臣の殉死)は、組織にとって、取り返しのつかない損失だということ。人材は、一朝一夕には育たず、失えば、その影響は長く尾を引く(秦不能復東征)。第三に、上に立つ者は、去り際・引き際にこそ、後世に何を遺すかを、深く考えるべきだということ。組織や人生で、一つの重大な過ちが生涯の功績を損ないうると自覚すること、優れた人材を失うことが取り返しのつかない損失だと知ること、そして去り際・引き際にこそ後世に何を遺すかを考えること——繆公の殉死への批判は、名君でさえ免れなかった過ちを、戒めとして教えます。