史記 / 秦本紀
繆公以客禮禮之,問伐戎之形。三十六年,繆公復益厚孟明等,使將兵伐晉,渡河焚船,大敗晉人,取王官及鄗,以報殽之役。晉人皆城守不敢出。於是繆公乃自茅津渡河,封殽中尸,為發喪,哭之三日。乃誓於軍曰:「嗟士卒!聽無譁,余誓告汝。古之人謀黃髪番番,則無所過。」以申思不用蹇叔、百里傒之謀,故作此誓,令後世以記余過。君子聞之,皆為垂涕,曰:「嗟乎!秦繆公之與人周也,卒得孟明之慶。」三十七年,秦用由余謀伐戎王,益國十二,開地千里,遂霸西戎。天子使召公過賀繆公以金鼓。
新字:繆公以客礼礼之,問伐戎之形。三十六年,繆公復益厚孟明等,使将兵伐晋,渡河焚船,大敗晋人,取王官及鄗,以報殽之役。晋人皆城守不敢出。於是繆公乃自茅津渡河,封殽中尸,為発喪,哭之三日。乃誓於軍曰:「嗟士卒!聴無譁,余誓告汝。古之人謀黄髪番番,則無所過。」以申思不用蹇叔、百里傒之謀,故作此誓,令後世以記余過。君子聞之,皆為垂涕,曰:「嗟乎!秦繆公之与人周也,卒得孟明之慶。」三十七年,秦用由余謀伐戎王,益国十二,開地千里,遂覇西戎。天子使召公過賀繆公以金鼓。
書き下し
繆公客礼を以て之を礼し、戎を伐つの形を問ふ。三十六年、繆公復た益孟明等を厚くし、兵を将ゐて晋を伐たしむ。河を渡りて船を焚き、大いに晋人を敗り、王官及び鄗を取り、以て殽の役に報ゆ。晋人皆城守して敢へて出でず。是に於て繆公乃ち茅津より河を渡り、殽中の尸を封じ、為に喪を発し、之を哭すること三日。乃ち軍に誓ひて曰く、「嗟士卒、聴きて譁しき無かれ、余誓ひて汝に告ぐ。古の人は謀るに黄髪番番たるに則れば、則ち過つ所無し」と。以て蹇叔・百里傒の謀を用ゐざりしを申思す。故に此の誓を作り、後世をして以て余が過ちを記さしむ。君子之を聞き、皆為に涕を垂れて、曰く、「嗟乎、秦の繆公の人に与すること周きや、卒に孟明の慶を得たり」と。三十七年、秦由余の謀を用ゐて戎王を伐ち、国を益すこと十二、地を開くこと千里、遂に西戎に霸たり。天子召公過をして繆公を賀するに金鼓を以てせしむ。
現代語訳
穆公は由余を賓客の礼で遇し、戎を討つための地勢や情勢を尋ねた。三十六年、穆公は再び孟明らをますます手厚く遇し、兵を率いて晋を討たせた。秦軍は黄河を渡ると船を焼いて退路を断ち、晋軍を大いに破って、王官と鄗の地を取り、殽の戦いの報復を果たした。晋の人々はみな城に立てこもり、あえて出てこなかった。そこで穆公は茅津から黄河を渡り、殽山で戦死した兵士の遺骸に土を盛って葬り、喪を発して三日間泣いた。そして軍に誓って言った。「ああ、兵士たちよ、静かに聞け。私はおまえたちに誓って告げる。昔の人は、白髪の老人の意見に従って事を謀ったので、過ちがなかった。」蹇叔と百里傒の謀を用いなかったことを深く反省したのである。そのためこの誓いの言葉を作り、後世の人々に自分の過ちを記憶させようとした。君子たちはこれを聞くと、みな涙を流して言った。「ああ、秦の穆公の人との接し方は行き届いている。だからこそついに孟明の手柄という幸いを得たのだ。」三十七年、秦は由余の謀を用いて戎王を討ち、十二の国を併合し、千里の土地を切り開いて、ついに西戎の覇者となった。周の天子は召公過を遣わし、金の鉦と太鼓を贈って穆公を祝賀させた。
解説
関連する章句
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史記 秦本紀兵を発して秦の兵を殽に遮り、之を撃ちて、大いに秦の軍を破り、一人も脱るるを得る者無し。秦の三将を虜にして以て帰る。文公の夫人は、秦の女なり。秦の三囚将の為に請ひて曰く、「繆公の此の三人を怨むこと骨髄に入る。願はくは此の三人をして帰らしめ、我が君をして自ら快く之を烹るを得しめよ」と。晋君之を許し、秦の三将を帰す。三将至る。繆公素服して郊迎し、三人に向かひて哭して曰く、「孤百里傒・蹇叔の言を用ゐざるを以て三子を辱む、三子何の罪かあらん。子其れ心を悉くして恥を雪げ、怠る毋かれ」と。遂に三人の官秩を復すること故の如くし、愈益之を厚くす。三十四年、楚の太子商臣其の父成王を弒して代はりて立つ。繆公是に於て復た孟明視等をして兵を将ゐて晋を伐たしめ、彭衙に戦ふ。
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史記 秦本紀鄭人に鄭を秦に売る者有りて曰く、「我其の城門を主る、鄭襲ふ可し」と。繆公蹇叔・百里傒に問ふ、対へて曰く、「数国を径て千里にして人を襲ふは、利を得る者希なり。且つ人鄭を売る、庸ぞ我が国人の我が情を以て鄭に告ぐる者有らざるを知らんや。不可なり」と。繆公曰く、「子知らざるなり、吾已に決せり」と。遂に兵を発す。晉の襄公秦兵を殽に遮り、之を撃ちて、大いに秦軍を破り、一人も脱するを得る者無し。
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呂氏春秋・悔過②昔秦の繆公、師を興して以て鄭を襲わんとす。蹇叔諫めて曰く、「不可なり。臣之を聞く、國邑を襲うには、車を以て百里を過ぎず、人を以て三十里を過ぎず、と。皆其の氣の趫なると力の盛なるとを以て至ればなり。是を以て敵を犯せば能く滅ぼし、之を去れば能く速やかなり。今數千里を行き、又諸侯の地を絶ちて以て國を襲う。臣其の可なるを知らざるなり。君其れ重ねて之を圖れ。」繆公聽かず。蹇叔、師を門外に送りて哭して曰く、「師や、其の出づるを見るも、其の入るを見ざらん。」蹇叔に子有り、申と視と曰う。師と偕に行く。蹇叔、其の子に謂いて曰く、「晉若し師を遏めば必ず殽に於いてせん。女死するや南方の阜に於いてせず、必ず北方の阜に於いてせよ。吾女を尸することの易きが為なり。」繆公之を聞き、人をして蹇叔を讓めしめて曰く、「寡人、師を興す、未だ何如なるかを知らず。今哭して之を送る、是れ吾が師を哭するなり。」蹇叔對えて曰く、「臣敢て師を哭せざるなり。臣老いたり、子二人有り。皆師と與に行く。其の反る比、彼死するに非ざれば、則ち臣必ずや死せん。是の故に哭す。」師行きて周を過ぐ。王孫滿、門を要じて之を窺い、曰く、「嗚呼。是の師必ず疵つくこと有らん。若し疵つくこと無ければ、吾復た道を言わず。夫れ秦は他に非ず、周室の國を建つるなり。天子の城を過ぐるや、宜しく甲を橐にし兵を束ね、左右皆下り、以て天子の為に禮すべし。今袀服回建し、左の軾せずして、右の超乘する者五百乘。力は則ち多し、然れども禮寡し。安くんぞ疵つくこと無きを得ん。」師、周を過ぎて東す。鄭の賈人弦高・奚施將に西のかた周に市せんとし、道に秦の師に遇う、曰く、「嘻、師の從りて來たる所の者遠し。此れ必ず鄭を襲わん。」遽かに奚施をして歸り告げしめ、乃ち鄭伯の命を矯りて以て之を勞らい、曰く、「寡君固より大國の將に至らんとするを聞くこと久し。大國至らず、寡君、士卒と竊かに大國の為に憂え、日に與る所無し。惟だ士卒の罷弊すると、糗糧の匱乏するとを恐る。何ぞ其れ久しきや。人臣をして犒勞するに璧を以てし、膳するに十二牛を以てす。」秦の三帥對えて曰く、「寡君の使うもの無きや、其の三臣、丙や術や視をして東邊に於いて㬐の道を候わしむ。是を過ぐるに以て迷惑し、大國の地に陷入す。敢て固辭せず。再拜稽首して之を受けん」。三帥乃ち懼れて謀りて曰く、「我數千里を行き、數々諸侯の地を絶ぎ、以て人を襲わんとす。未だ至らずして、人已に先づ之を知る。此れ其の備え必ずや已に盛ならん。」師を還して之を去る。是の時に當りて、晉の文公適々薨じ、未だ葬らず。先軫、襄公に言いて曰く、「秦の師、撃たざる可からず。臣請う、之を撃たん。」襄公曰く、「先君薨じ、尸は堂に在り。秦の師を見て、利として因りて之を撃つは、乃ち人の子為るの道に非ざること無からんか。」先軫曰く、「吾が喪に弔せず、吾が哀に憂えず。是れ吾が君を死せりとして其の孤を弱とするなり。是くの若くして撃たば、大いに彊つ可し。臣請う之を撃たん。」襄公已むを得ずして之を許す。先軫、秦の師を殽に遏めて之を撃ち、大いに之を敗り、其の三帥を獲て以て歸る。繆公之を聞き、素服して廟臨し、以て衆に説きて曰く、「天は秦國の為にせず。寡人をして蹇叔の諫を用いず、以て此の患いに至らしむ。」此れ繆公は殽に敗るるを欲するに非ざるなり。智至らざるなり。智至らざれば則ち信ぜず。言の信ぜられざると、師の反らざるとは、此れ從り生ず。故に至らざるの害為るや大なり。
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尚書・秦誓公曰く、「嗟(ああ)!我が士よ。聴きて嘩しくすること無かれ。予誓ひて汝に群言の首を告ぐ。古人言へる有り、曰く、『民は自ら是くの若くするを訖せば、盤しむこと多し。
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史記 秦本紀繆公聞き、怒りて曰く、「孤兵を発して子沮みて吾が軍を哭するは、何ぞや」と。二老曰く、「臣敢へて君の軍を沮むに非ず。軍行くに、臣の子与に往く。臣老いたり、遅く還らば相見ざらんことを恐る、故に哭するのみ」と。二老退きて、其の子に謂ひて曰く、「汝の軍即し敗れなば、必ず殽の阨に於てせん」と。三十三年春、秦の兵遂に東し、晋の地を更り、周の北門を過ぐ。周の王孫満曰く、「秦の師礼無し、敗れずして何をか待たん」と。兵滑に至る。鄭の販売の賈人弦高、十二牛を持ちて将に之を周に売らんとす。秦の兵を見て、死虜を恐れ、因りて其の牛を献じて、曰く、「大国将に鄭を誅せんとすと聞く。鄭君謹んで守御の備へを修め、臣をして牛十二を以て軍士を労はしむ」と。秦の三将軍相謂ひて曰く、「将に鄭を襲はんとす。鄭今已に之を覚る、往くも及ぶ無し」と。滑を滅ぼす。滑は、晋の辺邑なり。是の時に当たり、晋の文公の喪尚ほ未だ葬らず。太子襄公怒りて曰く、「秦我が孤を侮り、喪に因りて我が滑を破る」と。遂に衰絰を墨くし、
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史記 秦本紀繆公の子四十人、其の太子嵤代はりて立つ。是を康公と為す。康公の元年。往歳繆公の卒せしとき、晋の襄公も亦卒す。襄公の弟名は雍、秦の出なり、秦に在り。晋の趙盾之を立てんと欲し、随会をして来たりて雍を迎へしむ。秦兵を以て送りて令狐に至る。晋襄公の子を立てて反りて秦の師を撃つ。秦の師敗れ、随会来奔す。二年、秦晋を伐ち、武城を取り、令狐の役に報ゆ。四年、晋秦を伐ち、少梁を取る。六年、秦晋を伐ち、羈馬を取る。河曲に戦ひ、大いに晋の軍を敗る。晋人随会の秦に在りて乱を為すを患ひ、乃ち魏讎余をして詳りて反かしめ、会と合謀し、詐りて会を得たり。会遂に晋に帰る。康公立つこと十二年にして卒し、子共公立つ。共公の二年、晋の趙穿其の君霊公を弒す。三年、楚の荘王彊く、北のかた兵雒に至り、周の鼎を問ふ。共公立つこと五年にして卒し、子桓公立つ。桓公の三年、晋我が一将を敗る。十年、楚の荘王鄭を服し、北のかた晋の兵を河上に敗る。是の時に当たり、楚霸たり、会盟を為して諸侯を合す。二十四年、晋の厲公初めて立ち、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と合謀して晋を撃つ。二十六年、晋諸侯を率ゐて秦を伐つ。秦の軍敗走し、追ひて涇に至りて還る。桓公立つこと二十七年にして卒し、子景公立つ。景公の四年、晋の欒書其の君厲公を弒す。十五年、鄭を救ひ、晋の兵を櫟に敗る。是の時晋の悼公盟主為り。十八年、晋の悼公彊く、数諸侯を会し、率ゐて以て秦を伐ち、秦の軍を敗る。秦の軍走り、晋の兵之を追ひ、遂に涇を渡り、棫林に至りて還る。二十七年、景公晋に如き、平公と盟ひ、已にして之に背く。三十六年、楚の公子囲其の君を弒して自立す。是を霊王と為す。
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