史記 / 秦本紀
三十二年冬,晉文公卒。 鄭人有賣鄭於秦曰:「我主其城門,鄭可襲也。」繆公問蹇叔、百里傒,對曰:「徑數國千里而襲人,希有得利者。且人賣鄭,庸知我國人不有以我情告鄭者乎?不可。」繆公曰:「子不知也,吾已決矣。」遂發兵,使百里傒子孟明視,蹇叔子西乞術及白乙丙將兵。行日,百里傒、蹇叔二人哭之。
新字:三十二年冬,晉文公卒。 鄭人有売鄭於秦曰:「我主其城門,鄭可襲也。」繆公問蹇叔、百里傒,対曰:「径数国千里而襲人,希有得利者。且人売鄭,庸知我国人不有以我情告鄭者乎?不可。」繆公曰:「子不知也,吾已決矣。」遂発兵,使百里傒子孟明視,蹇叔子西乞術及白乙丙将兵。行日,百里傒、蹇叔二人哭之。
書き下し
鄭人に鄭を秦に売る者有りて曰く、「我其の城門を主る、鄭襲ふ可し」と。繆公蹇叔・百里傒に問ふ、対へて曰く、「数国を径て千里にして人を襲ふは、利を得る者希なり。且つ人鄭を売る、庸ぞ我が国人の我が情を以て鄭に告ぐる者有らざるを知らんや。不可なり」と。繆公曰く、「子知らざるなり、吾已に決せり」と。遂に兵を発す。晉の襄公秦兵を殽に遮り、之を撃ちて、大いに秦軍を破り、一人も脱するを得る者無し。
現代語訳
鄭の人で、鄭を秦に売ろうとする者があり、こう言った。「私は鄭の城門を管理している。鄭を襲えます」。繆公は蹇叔と百里傒に諮った。二人は答えた。「いくつもの国を越えて千里の彼方で人を襲うのは、利を得られることが稀です。それに、その男は鄭を売ろうとしている。ならば、我が国の者が我々の企てを鄭に告げ口しないと、どうして言えましょうか。いけません」。繆公は言った。「そなたらには分からぬ。私はもう決めた」。そして兵を出した。晉の襄公は秦軍を殽で待ち伏せて攻撃し、秦軍を大破した。一人として逃れられた者はいなかった。
解説
「自分の心が決まっていると、たとえ賢者の正しい忠告でも、耳に入らなくなる」——繆公が、賢臣の諫めを退けて大敗した、苦い教訓を描いた一段です。あるとき、鄭の国の裏切り者が、秦に内通してきました。「私が鄭の城門を管理している。今なら鄭を奇襲できます」と。遠征の好機と見た繆公は、老臣の蹇叔(けんしゅく)と百里傒(百里奚)に、意見を求めます。二人の答えは、慎重なものでした。「いくつもの国を越え、千里もの遠くまで遠征して、他国を奇襲して、うまくいった例は、めったにありません。それに、鄭を売る裏切り者がいるということは、(逆に)我が秦の中にも、こちらの動きを鄭に密告する者がいないとも限りません。(機密は漏れます。)おやめなさい(不可)」と。長年の経験に裏打ちされた、的確な忠告でした。ところが、すでに遠征に心を決めていた繆公は、これを退けます。「お前たちには分かるまい。私は、もう決めたのだ(吾已決矣)」と。自分の心が決まっているために、賢者の正しい忠告が、耳に入らなくなっていたのです。そして、結果は、二人の老臣が予言した通りになりました。秦軍が遠征に出ると、晋の襄公が、殽(こう)の険しい地で待ち伏せし、これを撃破。秦軍は完膚なきまでに叩きのめされ、「一人として、生きて逃げ延びる者はいなかった(無一人得脫者)」のです。ここに、忠告を聴くことについての教訓があります。第一に、自分の心がすでに決まっていると、たとえ賢者の、経験に裏打ちされた正しい忠告でも、耳に入らなくなるということ(吾已決矣)。「もう決めた」という思い込みは、聴く耳を塞ぐ。決断の前に、そして決断した後でさえ、異なる意見に耳を傾ける柔軟さが要る。第二に、好機や、目先の利益(鄭の奇襲)に目を奪われると、そこに潜むリスク(機密漏洩、遠征の困難)が見えなくなるということ。賢臣は、繆公が見落としていたリスクを、冷静に指摘していた。第三に、正しい忠告を退けた代償は、しばしば、取り返しのつかないほど大きいということ(無一人得脫者)。組織や意思決定で、自分の心が決まっているときこそ異なる意見に耳を傾けること、好機や目先の利益に潜むリスクを見落とさないこと、そして正しい忠告を退けた代償の大きさを自覚すること——繆公の殽の敗北は、忠告を聴くことの大切さを、痛烈に教えます。
この章句が説くこと
秦繆公蹇叔百里傒の諫言殽の敗北吾已決矣心が決まると忠告が耳に入らない思い込みが聴く耳を塞ぐ