史記 / 秦本紀
不聽,而陰用豹。十二年,齊管仲、隰朋死。晉旱,來請粟。丕豹說繆公勿與,因其饑而伐之。繆公問公孫支,支曰:「饑穰更事耳,不可不與。」問百里傒,傒曰:「夷吾得罪於君,其百姓何罪?」於是用百里傒、公孫支言,卒與之粟。以船漕車轉,自雍相望至絳。十四年,秦饑,請粟於晉。晉君謀之群臣。虢射曰:「因其饑伐之,可有大功。」晉君從之。十五年,興兵將攻秦。繆公發兵,使丕豹將,自往擊之。九月壬戌,與晉惠公夷吾合戰於韓地。晉君棄其軍,與秦爭利,還而馬騺。繆公與麾下馳追之,不能得晉君,反為晉軍所圍。晉擊繆公,繆公傷。於是岐下食善馬者三百人馳冒晉軍,晉軍解圍,遂脫繆公而反生得晉君。
新字:不聴,而陰用豹。十二年,斉管仲、隰朋死。晋旱,来請粟。丕豹説繆公勿与,因其饑而伐之。繆公問公孫支,支曰:「饑穰更事耳,不可不与。」問百里傒,傒曰:「夷吾得罪於君,其百姓何罪?」於是用百里傒、公孫支言,卒与之粟。以船漕車転,自雍相望至絳。十四年,秦饑,請粟於晋。晋君謀之群臣。虢射曰:「因其饑伐之,可有大功。」晋君従之。十五年,興兵将攻秦。繆公発兵,使丕豹将,自往撃之。九月壬戌,与晋恵公夷吾合戦於韓地。晋君棄其軍,与秦争利,還而馬騺。繆公与麾下馳追之,不能得晋君,反為晋軍所囲。晋撃繆公,繆公傷。於是岐下食善馬者三百人馳冒晋軍,晋軍解囲,遂脱繆公而反生得晋君。
書き下し
聴かず、而して陰かに豹を用ゐる。十二年、斉の管仲・隰朋死す。晋旱し、来たりて粟を請ふ。丕豹繆公に説きて与ふる勿からしめ、其の饑に因りて之を伐たんとす。繆公公孫支に問ふ。支曰く、「饑穣は更事なるのみ、与へざる可からず」と。百里傒に問ふ。傒曰く、「夷吾罪を君に得たり、其の百姓何の罪かあらん」と。是に於て百里傒・公孫支の言を用ゐ、卒に之に粟を与ふ。船漕車転を以てし、雍より相望みて絳に至る。十四年、秦饑ゑ、粟を晋に請ふ。晋君之を群臣に謀る。虢射曰く、「其の饑に因りて之を伐たば、大功有る可し」と。晋君之に従ふ。十五年、兵を興して将に秦を攻めんとす。繆公兵を発し、丕豹をして将たらしめ、自ら往きて之を撃つ。九月壬戌、晋の恵公夷吾と韓の地に合戦す。晋君其の軍を棄て、秦と利を争ひ、還りて馬騺る。繆公麾下と馳せて之を追ふも、晋君を得る能はず、反りて晋軍の囲む所と為る。晋繆公を撃ち、繆公傷つく。是に於て岐下の善馬を食らひし者三百人、馳せて晋軍を冒す。晋軍囲みを解き、遂に繆公を脱して反りて晋君を生け得たり。
現代語訳
(穆公は丕豹の意見を)聞き入れなかったが、ひそかに丕豹を用いた。十二年、斉の管仲と隰朋が亡くなった。晋が日照りに見舞われ、秦に穀物を求めてきた。丕豹は穆公に与えないよう説き、晋の飢饉に乗じて討つよう勧めた。穆公は公孫支に尋ねた。公孫支は言った。「飢饉と豊作はかわるがわる起こるものにすぎない。与えないわけにはいかない。」百里傒に尋ねた。百里傒は言った。「夷吾は君に罪を犯したが、晋の民に何の罪があろうか。」そこで百里傒と公孫支の言葉を用い、ついに晋に穀物を与えた。船で運び車で運んで、雍から絳(晋の都)まで輸送の列が途切れることなく続いた。十四年、今度は秦が飢饉となり、晋に穀物を求めた。晋の君主はこれを群臣に諮った。虢射は言った。「秦の飢饉に乗じて討てば、大きな功を立てられよう。」晋の君主はこれに従った。十五年、晋は兵を起こして秦を攻めようとした。穆公も兵を出し、丕豹を将とし、自ら出陣して迎え撃った。九月壬戌の日、晋の恵公夷吾と韓の地で戦った。晋の君主は自軍を離れて秦と戦果を争ったが、引き返そうとしたところで馬がぬかるみにはまって動けなくなった。穆公は配下の兵とともに馬を駆って追ったが、晋の君主を捕らえることができず、逆に晋軍に包囲された。晋軍が穆公を攻め、穆公は傷を負った。そのとき、かつて岐山のふもとで穆公の名馬を食べた三百人が馬を駆って晋軍に突入した。晋軍は包囲を解き、ついに穆公を救い出したうえ、逆に晋の君主を生け捕りにした。
解説
関連する章句
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史記 晋世家秦の繆公之を許し、人をして与に帰りて晋に報ぜしめ、厚く三子に賂ふ。三子曰く、「幣厚く言甘し。此れ必ず邳鄭我を秦に売るならん」と。遂に邳鄭及び里克・邳鄭の党の七輿大夫を殺す。邳鄭の子豹秦に奔り、晋を伐たんことを言ふ。繆公聴かず。恵公の立つや、秦の地及び里克に倍き、七輿大夫を誅し、国人附かず。二年、周召公過をして晋の恵公に礼せしむ。恵公礼倨る。召公之を譏る。四年、晋饑ゑ、糴を秦に乞ふ。繆公百里奚に問ふ。百里奚曰く、「天菑流行し、国家代はる代はる有り。菑を救ひ隣を恤むは、国の道なり。之に与へよ」と。邳鄭の子豹曰く、「之を伐て」と。繆公曰く、「其の君は是れ悪なり。其の民何の罪かあらん」と。卒に粟を与へ、雍より絳に属(つら)なる。五年、秦饑ゑ、糴を晋に請ふ。晋君之を謀る。慶鄭曰く、「秦を以て立つを得、已にして其の地の約に倍く。晋饑ゑて秦我に貸す。今秦饑ゑて糴を請ふ。之に与ふること何ぞ疑はん。而も之を謀るとは」と。虢射曰く、「往年天晋を以て秦に賜ふ。秦取るを知らずして我に貸す。今天秦を以て晋に賜ふ。晋其れ以て天に逆らふべけんや。遂に之を伐て」と。恵公虢射の謀を用ひ、秦に粟を与へず、而して兵を発して且に秦を伐たんとす。秦大いに怒り、亦た兵を発して晋を伐つ。六年春、秦の繆公兵を将ゐて晋を伐つ。晋の恵公慶鄭に謂ひて曰く、「秦の師深し。奈何せん」と。鄭曰く、「秦君を内る。君其の賂に倍く。晋饑ゑて秦粟を輸る。秦饑ゑて晋之に倍き、乃ち其の饑に因りて之を伐たんと欲す。其の深きも亦た宜ならずや」と。晋御右を卜す。慶鄭皆吉なり。公曰く、「鄭は孫(したが)はず」と。乃ち更に歩陽をして戎に御せしめ、家僕徒を右と為し、兵を進む。九月壬戌、秦の繆公・晋の恵公韓原に合戦す。恵公の馬騺(ち)して行かず。秦の兵至る。公窘しみ、慶鄭を召して御と為さんとす。鄭曰く、「卜を用ひず。敗るるも亦た当たらずや」と。遂に去る。更に梁繇靡をして御せしめ、虢射を右と為し、秦の繆公を輅(むか)ふ。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 晋世家繆公の壮士冒して晋の軍を敗る。晋の軍敗れ、遂に秦の繆公を失ひ、反って晋公を獲て以て帰る。秦将に以て上帝を祀らんとす。晋君の姊は繆公の夫人為り。衰絰して涕泣す。公曰く、「晋侯を得て将に以て楽しみと為さんとす。今乃ち此の如し。且つ吾聞く、箕子唐叔の初めて封ぜらるるを見て曰く、『其の後必ず当に大なるべし』と。晋庸(なん)ぞ滅ぼすべけんや」と。乃ち晋侯と王城に盟ひて之が帰るを許す。晋侯も亦た呂省等をして国人に報ぜしめて曰く、「孤帰るを得と雖も、社稷に見ゆる面目毋し。日を卜して子圉を立てよ」と。晋人之を聞き、皆哭す。秦の繆公呂省に問ふ、「晋国和するか」と。対へて曰く、「和せず。小人は君を失ひ親を亡ふを懼れ、子圉を立つるを憚らず。曰く『必ず讎に報いん。寧ろ戎・狄に事へん』と。其の君子は則ち君を愛して罪を知り、以て秦の命を待つ。曰く『必ず徳に報いん』と。此の二つの故有り、和せず」と。是に於て秦の繆公更に晋の恵公を舎(やど)らしめ、之に七牢を餽る。十一月、晋侯を帰す。晋侯国に至り、慶鄭を誅し、政教を修む。謀りて曰く、「重耳外に在り。諸侯多く之を内るるを利とす」と。人をして重耳を狄に殺さしめんと欲す。重耳之を聞き、斉に如く。八年、太子圉をして秦に質たらしむ。初め、恵公亡げて梁に在るや、梁伯其の女を以て之に妻す。一男一女を生む。梁伯之を卜す。男は人の臣と為り、女は人の妾と為る。故に男に名づけて圉と為し、女を妾と為す。十年、秦梁を滅ぼす。梁伯土功を好み、城溝を治め、民力罷れて怨み、其の衆数々相驚きて「秦の寇至る」と曰ふ。民恐れ惑ふ。秦竟に之を滅ぼす。十三年、晋の恵公病む。内に数子有り。太子圉曰く、「吾が母の家は梁に在り。梁今秦之を滅ぼす。我外は秦に軽んぜられ、内は国に援け無し。君即し起たずんば、大夫を病ましめ軽んぜられ、更に他の公子を立てん」と。乃ち其の妻と倶に亡げ帰らんことを謀る。秦の女曰く、「子は一国の太子にして、辱めて此に在り。秦婢子をして侍らしむるは、以て子の心を固めんとてなり。子亡げよ。我子に従はず、亦た敢て言はず」と。
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史記 秦本紀百里傒譲りて曰く、「臣は臣の友蹇叔に及ばず。蹇叔は賢にして世知る莫し。臣常に游びて斉に困しみ、食を銍人に乞ふ。蹇叔臣を収む。臣因りて斉君無知に事へんと欲す。蹇叔臣を止む。臣斉の難を脱るるを得て、遂に周に之く。周の王子穨牛を好む。臣牛を養ふを以て之に干む。穨臣を用ゐんと欲するに及び、蹇叔臣を止む。臣去りて、誅せられざるを得たり。虞君に事ふ。蹇叔臣を止む。臣虞君の臣を用ゐざるを知るも、臣誠に禄爵を私利し、且く留まる。再び其の言を用ゐて、脱るるを得、一たび用ゐずして、虞君の難に及ぶ。是を以て其の賢を知る」と。是に於て繆公人をして幣を厚くして蹇叔を迎へしめ、以て上大夫と為す。秋、繆公自ら将として晋を伐ち、河曲に戦ふ。晋の驪姫乱を作し、太子申生新城に死し、重耳・夷吾出奔す。九年、斉の桓公諸侯を葵丘に会す。晋の献公卒す。驪姫の子奚斉を立つ。其の臣里克奚斉を殺す。荀息卓子を立つ。克又卓子及び荀息を殺す。夷吾人をして秦に請はしめ、晋に入らんことを求む。是に於て繆公之を許し、百里傒をして兵を将ゐて夷吾を送らしむ。夷吾謂ひて曰く、「誠に立つを得ば、請ふ晋の河西の八城を割きて秦に与へん」と。至るに及び、已に立ちて、丕鄭をして秦に謝せしめ、約に背きて河西の城を与へず、而して里克を殺す。丕鄭之を聞き、恐れ、因りて繆公と謀りて曰く、「晋人夷吾を欲せず、実は重耳を欲す。今秦の約に背きて里克を殺すは、皆呂甥・郤芮の計なり。願はくは君利を以て急ぎ呂・郤を召せ。呂・郤至らば、則ち更めて重耳を入るること便ならん」と。繆公之を許し、人をして丕鄭と帰り、呂・郤を召さしむ。呂・郤等丕鄭に間有るを疑ひ、乃ち夷吾に言ひて丕鄭を殺す。丕鄭の子丕豹秦に奔り、繆公に説きて曰く、「晋君無道にして、百姓親しまず、伐つ可し」と。繆公曰く、「百姓苟も便ならずんば、何の故に能く其の大臣を誅せんや。能く其の大臣を誅す、此れ其の調ふなり」と。
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史記 秦本紀初め、繆公善馬を亡ふ、岐下の野人共に得て之を食らふ者三百餘人、吏逐ひ得て、之を法せんと欲す。繆公曰く、「君子は畜産を以て人を害せず。吾聞く善馬の肉を食らひて酒を飲まざれば、人を傷ると」と。乃ち皆酒を賜ひて之を赦す。三百人の者秦の晉を撃つを聞き、皆従はんことを求め、従ひて繆公の窘するを見、亦た皆鋒を推して死を争ひ、以て馬を食らひしの徳に報ゆ。
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呂氏春秋・愛士②昔者、秦の繆公、駕に乘りて車敗を為し、右服失して、埜人之を取る。繆公自ら往きて之を求むるに、埜人方將に之を岐山の陽に食らわんとするを見る。繆公歎じて曰く、駿馬の肉を食らいて、還やかに酒を飲まずんば、余、其の女を傷わんことを恐るるなり、と。是に於て遍く飲ましめて去る。處ること一年、韓原の戰を為す。晉人已に繆公の車を環み、晉の梁由靡已に繆公の左驂を扣え、晉の惠公の右の路石、投を奮いて繆公の甲を撃ち、之に中つる者已に六札なり。埜人の嘗て馬肉を岐山の陽に食らう者三百有餘人、力を畢くして繆公の為に疾やく車下に鬭い、遂に大いに晉に克ち、反て惠公を獲て以て歸る。此れ詩の所謂、君子に君たれば則ち正、以て其の德を行わしめ、賤人に君たれば則ち寬、以て其の力を盡くさしむ、と曰う者なり。人主其れ胡ぞ以て德を行い人を愛することを務めること無かる可けんや。徳を行い人を愛すれば則ち民其の上に親しみ、民其の上に親しめば、則ち皆其の君の為に死することを樂しむ。
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