史記 / 秦本紀
百里傒讓曰:「臣不及臣友蹇叔,蹇叔賢而世莫知。臣常游困於齊而乞食銍人,蹇叔收臣。臣因而欲事齊君無知,蹇叔止臣,臣得脫齊難,遂之周。周王子穨好牛,臣以養牛干之。及穨欲用臣,蹇叔止臣,臣去,得不誅。事虞君,蹇叔止臣。臣知虞君不用臣,臣誠私利祿爵,且留。再用其言,得脫,一不用,及虞君難:是以知其賢。」於是繆公使人厚幣迎蹇叔,以為上大夫。秋,繆公自將伐晉,戰於河曲。晉驪姬作亂,太子申生死新城,重耳、夷吾出奔。九年,齊桓公會諸侯於葵丘。晉獻公卒。立驪姬子奚齊,其臣里克殺奚齊。荀息立卓子,克又殺卓子及荀息。夷吾使人請秦,求入晉。於是繆公許之,使百里傒將兵送夷吾。夷吾謂曰:「誠得立,請割晉之河西八城與秦。」及至,已立,而使丕鄭謝秦,背約不與河西城,而殺裏克。丕鄭聞之,恐,因與繆公謀曰:「晉人不欲夷吾,實欲重耳。今背秦約而殺裏克,皆呂甥、郤芮之計也。願君以利急召呂、郤,呂、郤至,則更入重耳便。」繆公許之,使人與丕鄭歸,召呂、郤。呂、郤等疑丕鄭有閒,乃言夷吾殺丕鄭。丕鄭子丕豹奔秦,說繆公曰:「晉君無道,百姓不親,可伐也。」繆公曰:「百姓茍不便,何故能誅其大臣?能誅其大臣,此其調也。」
新字:百里傒譲曰:「臣不及臣友蹇叔,蹇叔賢而世莫知。臣常游困於斉而乞食銍人,蹇叔収臣。臣因而欲事斉君無知,蹇叔止臣,臣得脱斉難,遂之周。周王子穨好牛,臣以養牛干之。及穨欲用臣,蹇叔止臣,臣去,得不誅。事虞君,蹇叔止臣。臣知虞君不用臣,臣誠私利禄爵,且留。再用其言,得脱,一不用,及虞君難:是以知其賢。」於是繆公使人厚幣迎蹇叔,以為上大夫。秋,繆公自将伐晋,戦於河曲。晋驪姫作乱,太子申生死新城,重耳、夷吾出奔。九年,斉桓公会諸侯於葵丘。晋献公卒。立驪姫子奚斉,其臣里克殺奚斉。荀息立卓子,克又殺卓子及荀息。夷吾使人請秦,求入晋。於是繆公許之,使百里傒将兵送夷吾。夷吾謂曰:「誠得立,請割晋之河西八城与秦。」及至,已立,而使丕鄭謝秦,背約不与河西城,而殺裏克。丕鄭聞之,恐,因与繆公謀曰:「晋人不欲夷吾,実欲重耳。今背秦約而殺裏克,皆呂甥、郤芮之計也。願君以利急召呂、郤,呂、郤至,則更入重耳便。」繆公許之,使人与丕鄭帰,召呂、郤。呂、郤等疑丕鄭有閒,乃言夷吾殺丕鄭。丕鄭子丕豹奔秦,説繆公曰:「晋君無道,百姓不親,可伐也。」繆公曰:「百姓苟不便,何故能誅其大臣?能誅其大臣,此其調也。」
書き下し
百里傒譲りて曰く、「臣は臣の友蹇叔に及ばず。蹇叔は賢にして世知る莫し。臣常に游びて斉に困しみ、食を銍人に乞ふ。蹇叔臣を収む。臣因りて斉君無知に事へんと欲す。蹇叔臣を止む。臣斉の難を脱るるを得て、遂に周に之く。周の王子穨牛を好む。臣牛を養ふを以て之に干む。穨臣を用ゐんと欲するに及び、蹇叔臣を止む。臣去りて、誅せられざるを得たり。虞君に事ふ。蹇叔臣を止む。臣虞君の臣を用ゐざるを知るも、臣誠に禄爵を私利し、且く留まる。再び其の言を用ゐて、脱るるを得、一たび用ゐずして、虞君の難に及ぶ。是を以て其の賢を知る」と。是に於て繆公人をして幣を厚くして蹇叔を迎へしめ、以て上大夫と為す。秋、繆公自ら将として晋を伐ち、河曲に戦ふ。晋の驪姫乱を作し、太子申生新城に死し、重耳・夷吾出奔す。九年、斉の桓公諸侯を葵丘に会す。晋の献公卒す。驪姫の子奚斉を立つ。其の臣里克奚斉を殺す。荀息卓子を立つ。克又卓子及び荀息を殺す。夷吾人をして秦に請はしめ、晋に入らんことを求む。是に於て繆公之を許し、百里傒をして兵を将ゐて夷吾を送らしむ。夷吾謂ひて曰く、「誠に立つを得ば、請ふ晋の河西の八城を割きて秦に与へん」と。至るに及び、已に立ちて、丕鄭をして秦に謝せしめ、約に背きて河西の城を与へず、而して里克を殺す。丕鄭之を聞き、恐れ、因りて繆公と謀りて曰く、「晋人夷吾を欲せず、実は重耳を欲す。今秦の約に背きて里克を殺すは、皆呂甥・郤芮の計なり。願はくは君利を以て急ぎ呂・郤を召せ。呂・郤至らば、則ち更めて重耳を入るること便ならん」と。繆公之を許し、人をして丕鄭と帰り、呂・郤を召さしむ。呂・郤等丕鄭に間有るを疑ひ、乃ち夷吾に言ひて丕鄭を殺す。丕鄭の子丕豹秦に奔り、繆公に説きて曰く、「晋君無道にして、百姓親しまず、伐つ可し」と。繆公曰く、「百姓苟も便ならずんば、何の故に能く其の大臣を誅せんや。能く其の大臣を誅す、此れ其の調ふなり」と。
現代語訳
百里傒は辞退して言った。「私は友人の蹇叔に及びませぬ。蹇叔は賢者だが、世の人は誰も知らない。私はかつて諸国を旅して斉で困窮し、銍の人に食べ物を乞うていた。蹇叔が私を引き取ってくれた。私はそこで斉の君主の無知に仕えようとしたが、蹇叔が私を止めた。おかげで私は斉の内乱から逃れることができ、周に行った。周の王子穨は牛を好んでいたので、私は牛を飼う腕前で彼に仕官を求めた。穨が私を用いようとしたとき、蹇叔が私を止めた。私は去り、(穨が殺された乱に)巻き込まれて誅されずにすんだ。虞の君主に仕えようとしたときも、蹇叔は私を止めた。私は虞の君主が私を重用しないことを知っていたが、正直なところ俸禄と爵位が欲しくて、しばらくとどまった。二度は彼の言葉に従って難を逃れ、一度は従わずに虞の君主の災難に巻き込まれた。これによって彼が賢者であることを知ったのである。」そこで穆公は人を遣わして手厚い贈り物で蹇叔を迎え、上大夫とした。秋、穆公は自ら兵を率いて晋を討ち、河曲で戦った。晋では驪姫が乱を起こし、太子申生は新城で死に、重耳と夷吾は国外に逃れた。九年、斉の桓公が葵丘で諸侯を集めた。晋の献公が亡くなった。驪姫の子の奚斉が立てられた。晋の臣の里克が奚斉を殺した。荀息が卓子を立てた。里克はさらに卓子と荀息を殺した。夷吾は人を遣わして秦に頼み、晋に入国して即位することを求めた。穆公はこれを許し、百里傒に兵を率いて夷吾を送らせた。夷吾は言った。「もし本当に即位できたら、晋の河西の八つの城を割いて秦に差し上げたい。」ところが晋に到着して即位すると、丕鄭を遣わして秦にわびを言わせ、約束に背いて河西の城を与えず、さらに里克を殺した。丕鄭はこれを聞いて恐れ、穆公と謀って言った。「晋の人々は夷吾を望まず、本当は重耳を望んでいる。今、秦との約束に背いて里克を殺したのは、すべて呂甥と郤芮の計略である。どうか君は利益をちらつかせて、急いで呂甥と郤芮を呼び寄せてくだされ。二人が来れば、改めて重耳を晋に入れるのに好都合だ。」穆公はこれを承知し、人を遣わして丕鄭とともに晋に帰らせ、呂甥と郤芮を呼ばせた。呂甥・郤芮らは丕鄭が秦と通じているのではと疑い、夷吾に告げて丕鄭を殺させた。丕鄭の子の丕豹は秦に逃げ、穆公に説いて言った。「晋の君主は無道で、民は親しんでいない。討つべきである。」穆公は言った。「民がもし本当に不満なら、どうして大臣を誅殺することができようか。大臣を誅殺できたということは、晋の内部がまだ整っているということだ。」
解説
関連する章句
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 秦本紀聴かず、而して陰かに豹を用ゐる。十二年、斉の管仲・隰朋死す。晋旱し、来たりて粟を請ふ。丕豹繆公に説きて与ふる勿からしめ、其の饑に因りて之を伐たんとす。繆公公孫支に問ふ。支曰く、「饑穣は更事なるのみ、与へざる可からず」と。百里傒に問ふ。傒曰く、「夷吾罪を君に得たり、其の百姓何の罪かあらん」と。是に於て百里傒・公孫支の言を用ゐ、卒に之に粟を与ふ。船漕車転を以てし、雍より相望みて絳に至る。十四年、秦饑ゑ、粟を晋に請ふ。晋君之を群臣に謀る。虢射曰く、「其の饑に因りて之を伐たば、大功有る可し」と。晋君之に従ふ。十五年、兵を興して将に秦を攻めんとす。繆公兵を発し、丕豹をして将たらしめ、自ら往きて之を撃つ。九月壬戌、晋の恵公夷吾と韓の地に合戦す。晋君其の軍を棄て、秦と利を争ひ、還りて馬騺る。繆公麾下と馳せて之を追ふも、晋君を得る能はず、反りて晋軍の囲む所と為る。晋繆公を撃ち、繆公傷つく。是に於て岐下の善馬を食らひし者三百人、馳せて晋軍を冒す。晋軍囲みを解き、遂に繆公を脱して反りて晋君を生け得たり。
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史記 晋世家病甚だしく、乃ち荀息に謂ひて曰く、「吾奚斉を以て後と為す。年少くして、諸大臣服せず、乱の起こらんことを恐る。子能く之を立てんか」と。荀息曰く、「能くせん」と。献公曰く、「何を以て験と為す」と。対へて曰く、「死者をして復た生かしめ、生者慚ぢざる、之が験と為さん」と。是に於て遂に奚斉を荀息に属す。荀息相と為り、国政を主る。秋九月、献公卒す。里克・邳鄭重耳を内れんと欲し、三公子の徒を以て乱を作さんとし、荀息に謂ひて曰く、「三怨将に起こらんとし、秦・晋之を輔く。子将に何如せんとす」と。荀息曰く、「吾先君の言に負くべからず」と。十月、里克奚斉を喪次に殺す。献公未だ葬られざるなり。荀息将に之に死せんとす。或ひと曰く、奚斉の弟悼子を立てて之に傅たるに如かずと。荀息悼子を立てて献公を葬る。十一月、里克悼子を朝に弑す。荀息之に死す。君子曰く、「詩に所謂『白珪の玷(か)けたるは、猶ほ磨くべし。斯の言の玷けたるは、為(をさ)むべからず』とは、其れ荀息の謂ひか。其の言に負かず」と。初め、献公将に驪戎を伐たんとす。卜して曰く「歯牙禍を為す」と。驪戎を破り、驪姫を獲るに及び、之を愛し、竟に以て晋を乱す。里克等已に奚斉・悼子を殺し、人をして公子重耳を翟に迎へしめ、之を立てんと欲す。重耳謝して曰く、「父の命に負きて出奔し、父死して人子の礼を修めて喪に侍するを得ず。重耳何ぞ敢て入らん。大夫其れ更に他子を立てよ」と。還りて里克に報ず。里克をして夷吾を梁に迎へしむ。夷吾往かんと欲す。呂省・郤芮曰く、「内に猶ほ公子の立つべき者有りて外に求むるは、信じ難し。計るに秦に之き、彊国の威を輔として以て入るに非ずんば、恐らくは危ふからん」と。乃ち郤芮をして厚く秦に賂はしめ、約して曰く、「即し入るを得ば、請ふ晋の河西の地を以て秦に与へん」と。及び里克に書を遺りて曰く、「誠に立つを得ば、請ふ遂に子を汾陽の邑に封ぜん」と。秦の繆公乃ち兵を発して夷吾を晋に送る。斉の桓公晋の内乱を聞き、亦た諸侯を率ゐて晋に如く。
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史記 晋世家秦の兵と夷吾も亦た晋に至る。斉乃ち隰朋をして秦に会して倶に夷吾を入れしめ、立てて晋君と為す。是を恵公と為す。斉の桓公晋の高梁に至りて還帰す。恵公夷吾の元年、邳鄭をして秦に謝せしめて曰く、「始め夷吾河西の地を以て君に許す。今幸ひに入りて立つを得たり。大臣曰く、『地は先君の地なり。君亡げて外に在り。何を以て擅に秦に許すを得たる者ぞ』と。寡人之を争ふも得ること能はず。故に秦に謝す」と。亦た里克に汾陽の邑を与へず、而して之が権を奪ふ。四月、周の襄王周公忌父をして斉・秦の大夫に会して共に晋の恵公に礼せしむ。恵公重耳の外に在るを以て、里克の変を為さんことを畏れ、里克に死を賜ふ。謂ひて曰く、「里子微(な)かりせば寡人立つを得ず。然りと雖も、子も亦た二君一大夫を殺す。子の君為る者も亦た難からずや」と。里克対へて曰く、「廃する所有らずんば、君何を以て興らん。之を誅せんと欲す。其れ辞無からんや。乃ち此を為すと言ふ。臣命を聞けり」と。遂に剣に伏して死す。是に於て邳鄭秦に謝せんとして使ひし未だ還らず。故に難に及ばず。晋の君恭太子申生を改葬す。秋、狐突下国に之き、申生に遇ふ。申生与に載せて之に告げて曰く、「夷吾無礼なり。余帝に請ふを得たり。将に晋を以て秦に与へんとす。秦将に余を祀らんとす」と。狐突対へて曰く、「臣聞く、神は其の宗に非ざるを食らはずと。君の祀は乃ち絶ゆること毋からんや。君其れ之を図れ」と。申生曰く、「諾。吾将に復た帝に請はんとす。後十日、新城の西偏に将に巫者有りて我を見んとす」と。之を許すや、遂に見えず。期に及びて往き、復た見ゆ。申生之に告げて曰く、「帝有罪を罰することを許せり。韓に弊れん」と。児乃ち謡ひて曰く、「恭太子更に葬らる。後十四年、晋も亦た昌えず。昌ゆるは乃ち兄に在り」と。邳鄭秦に使ひし、里克の誅せらるるを聞き、乃ち秦の繆公に説きて曰く、「呂省・郤称・冀芮実に従はざるを為す。若し重く賂ひて与に謀り、晋君を出だして、重耳を入るれば、事必ず就らん」と。
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史記 晋世家繆公の壮士冒して晋の軍を敗る。晋の軍敗れ、遂に秦の繆公を失ひ、反って晋公を獲て以て帰る。秦将に以て上帝を祀らんとす。晋君の姊は繆公の夫人為り。衰絰して涕泣す。公曰く、「晋侯を得て将に以て楽しみと為さんとす。今乃ち此の如し。且つ吾聞く、箕子唐叔の初めて封ぜらるるを見て曰く、『其の後必ず当に大なるべし』と。晋庸(なん)ぞ滅ぼすべけんや」と。乃ち晋侯と王城に盟ひて之が帰るを許す。晋侯も亦た呂省等をして国人に報ぜしめて曰く、「孤帰るを得と雖も、社稷に見ゆる面目毋し。日を卜して子圉を立てよ」と。晋人之を聞き、皆哭す。秦の繆公呂省に問ふ、「晋国和するか」と。対へて曰く、「和せず。小人は君を失ひ親を亡ふを懼れ、子圉を立つるを憚らず。曰く『必ず讎に報いん。寧ろ戎・狄に事へん』と。其の君子は則ち君を愛して罪を知り、以て秦の命を待つ。曰く『必ず徳に報いん』と。此の二つの故有り、和せず」と。是に於て秦の繆公更に晋の恵公を舎(やど)らしめ、之に七牢を餽る。十一月、晋侯を帰す。晋侯国に至り、慶鄭を誅し、政教を修む。謀りて曰く、「重耳外に在り。諸侯多く之を内るるを利とす」と。人をして重耳を狄に殺さしめんと欲す。重耳之を聞き、斉に如く。八年、太子圉をして秦に質たらしむ。初め、恵公亡げて梁に在るや、梁伯其の女を以て之に妻す。一男一女を生む。梁伯之を卜す。男は人の臣と為り、女は人の妾と為る。故に男に名づけて圉と為し、女を妾と為す。十年、秦梁を滅ぼす。梁伯土功を好み、城溝を治め、民力罷れて怨み、其の衆数々相驚きて「秦の寇至る」と曰ふ。民恐れ惑ふ。秦竟に之を滅ぼす。十三年、晋の恵公病む。内に数子有り。太子圉曰く、「吾が母の家は梁に在り。梁今秦之を滅ぼす。我外は秦に軽んぜられ、内は国に援け無し。君即し起たずんば、大夫を病ましめ軽んぜられ、更に他の公子を立てん」と。乃ち其の妻と倶に亡げ帰らんことを謀る。秦の女曰く、「子は一国の太子にして、辱めて此に在り。秦婢子をして侍らしむるは、以て子の心を固めんとてなり。子亡げよ。我子に従はず、亦た敢て言はず」と。
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史記 晋世家秦の繆公之を許し、人をして与に帰りて晋に報ぜしめ、厚く三子に賂ふ。三子曰く、「幣厚く言甘し。此れ必ず邳鄭我を秦に売るならん」と。遂に邳鄭及び里克・邳鄭の党の七輿大夫を殺す。邳鄭の子豹秦に奔り、晋を伐たんことを言ふ。繆公聴かず。恵公の立つや、秦の地及び里克に倍き、七輿大夫を誅し、国人附かず。二年、周召公過をして晋の恵公に礼せしむ。恵公礼倨る。召公之を譏る。四年、晋饑ゑ、糴を秦に乞ふ。繆公百里奚に問ふ。百里奚曰く、「天菑流行し、国家代はる代はる有り。菑を救ひ隣を恤むは、国の道なり。之に与へよ」と。邳鄭の子豹曰く、「之を伐て」と。繆公曰く、「其の君は是れ悪なり。其の民何の罪かあらん」と。卒に粟を与へ、雍より絳に属(つら)なる。五年、秦饑ゑ、糴を晋に請ふ。晋君之を謀る。慶鄭曰く、「秦を以て立つを得、已にして其の地の約に倍く。晋饑ゑて秦我に貸す。今秦饑ゑて糴を請ふ。之に与ふること何ぞ疑はん。而も之を謀るとは」と。虢射曰く、「往年天晋を以て秦に賜ふ。秦取るを知らずして我に貸す。今天秦を以て晋に賜ふ。晋其れ以て天に逆らふべけんや。遂に之を伐て」と。恵公虢射の謀を用ひ、秦に粟を与へず、而して兵を発して且に秦を伐たんとす。秦大いに怒り、亦た兵を発して晋を伐つ。六年春、秦の繆公兵を将ゐて晋を伐つ。晋の恵公慶鄭に謂ひて曰く、「秦の師深し。奈何せん」と。鄭曰く、「秦君を内る。君其の賂に倍く。晋饑ゑて秦粟を輸る。秦饑ゑて晋之に倍き、乃ち其の饑に因りて之を伐たんと欲す。其の深きも亦た宜ならずや」と。晋御右を卜す。慶鄭皆吉なり。公曰く、「鄭は孫(したが)はず」と。乃ち更に歩陽をして戎に御せしめ、家僕徒を右と為し、兵を進む。九月壬戌、秦の繆公・晋の恵公韓原に合戦す。恵公の馬騺(ち)して行かず。秦の兵至る。公窘しみ、慶鄭を召して御と為さんとす。鄭曰く、「卜を用ひず。敗るるも亦た当たらずや」と。遂に去る。更に梁繇靡をして御せしめ、虢射を右と為し、秦の繆公を輅(むか)ふ。
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