史記 / 秦本紀
德公元年,初居雍城大鄭宮。以犧三百牢祠鄜畤。卜居雍。後子孫飲馬於河。梁伯、芮伯來朝。二年,初伏,以狗御蠱。德公生三十三歲而立,立二年卒。生子三人:長子宣公,中子成公,少子穆公。長子宣公立。宣公元年,衛、燕伐周,出惠王,立王子穨。三年,鄭伯、虢叔殺子穨而入惠王。四年,作密畤。與晉戰河陽,勝之。十二年,宣公卒。生子九人,莫立,立其弟成公。成公元年,梁伯、芮伯來朝。齊桓公伐山戎,次于孤竹。成公立四年卒。子七人,莫立,立其弟繆公。繆公任好元年,自將伐茅津,勝之。四年,迎婦於晉,晉太子申生姊也。其歲,齊桓公伐楚,至邵陵。五年,晉獻公滅虞、虢,虜虞君與其大夫百里傒,以璧馬賂於虞故也。既虜百里傒,以為秦繆公夫人媵於秦。百里傒亡秦走宛,楚鄙人執之。
新字:徳公元年,初居雍城大鄭宮。以犠三百牢祠鄜畤。卜居雍。後子孫飲馬於河。梁伯、芮伯来朝。二年,初伏,以狗御蠱。徳公生三十三歳而立,立二年卒。生子三人:長子宣公,中子成公,少子穆公。長子宣公立。宣公元年,衛、燕伐周,出恵王,立王子穨。三年,鄭伯、虢叔殺子穨而入恵王。四年,作密畤。与晋戦河陽,勝之。十二年,宣公卒。生子九人,莫立,立其弟成公。成公元年,梁伯、芮伯来朝。斉桓公伐山戎,次于孤竹。成公立四年卒。子七人,莫立,立其弟繆公。繆公任好元年,自将伐茅津,勝之。四年,迎婦於晋,晋太子申生姊也。其歳,斉桓公伐楚,至邵陵。五年,晋献公滅虞、虢,虜虞君与其大夫百里傒,以璧馬賂於虞故也。既虜百里傒,以為秦繆公夫人媵於秦。百里傒亡秦走宛,楚鄙人執之。
書き下し
徳公の元年、初めて雍城の大鄭宮に居る。犠三百牢を以て鄜畤を祠る。雍に居ることを卜す。後の子孫馬に河に飲はしめん。梁伯・芮伯来朝す。二年、初めて伏し、狗を以て蠱を御ぐ。徳公生まれて三十三歳にして立ち、立つこと二年にして卒す。子三人を生む。長子宣公、中子成公、少子穆公。長子宣公立つ。宣公の元年、衛・燕周を伐ち、恵王を出だし、王子穨を立つ。三年、鄭伯・虢叔子穨を殺して恵王を入る。四年、密畤を作る。晋と河陽に戦ひ、之に勝つ。十二年、宣公卒す。子九人を生むも、立つる莫く、其の弟成公を立つ。成公の元年、梁伯・芮伯来朝す。斉の桓公山戎を伐ち、孤竹に次る。成公立つこと四年にして卒す。子七人あるも、立つる莫く、其の弟繆公を立つ。繆公任好の元年、自ら将として茅津を伐ち、之に勝つ。四年、婦を晋に迎ふ。晋の太子申生の姊なり。其の歳、斉の桓公楚を伐ち、邵陵に至る。五年、晋の献公虞・虢を滅ぼし、虞君と其の大夫百里傒とを虜にす。璧馬を以て虞に賂ひし故なり。既に百里傒を虜にし、以て秦の繆公の夫人の媵と為して秦に送る。百里傒秦を亡げて宛に走る。楚の鄙人之を執ふ。
現代語訳
徳公の元年、はじめて雍城の大鄭宮に住んだ。犠牲の獣三百組を供えて鄜畤で祭った。雍に住むことを占ったところ、(子孫が栄え)後世の子孫は黄河で馬に水を飲ませるであろう(黄河まで領土を広げるであろう)と出た。梁伯と芮伯が来朝した。二年、はじめて伏日(夏の最も暑い時期の祭日)を定め、犬を殺して毒虫の害を防いだ。徳公は三十三歳で即位し、在位二年で亡くなった。三人の子がいた。長子は宣公、次子は成公、末子は穆公である。長子の宣公が立った。宣公の元年、衛と燕が周を討って恵王を追い出し、王子穨を立てた。三年、鄭伯と虢叔が子穨を殺して恵王を都に戻した。四年、密畤という祭場を作った。晋と河陽で戦い、勝った。十二年、宣公が亡くなった。九人の子がいたが、誰も立てず、弟の成公を立てた。成公の元年、梁伯と芮伯が来朝した。斉の桓公が山戎を討ち、孤竹に陣を置いた。成公は即位して四年で亡くなった。七人の子がいたが、誰も立てず、弟の穆公を立てた。穆公任好の元年、自ら兵を率いて茅津を討ち、勝った。四年、晋から妻を迎えた。晋の太子申生の姉である。その年、斉の桓公が楚を討ち、邵陵に至った。五年、晋の献公が虞と虢を滅ぼし、虞の君主とその大夫の百里傒を捕虜にした。晋が璧と名馬を虞に贈って(道を借り)虢を討ったためである。百里傒を捕虜にすると、秦の穆公の夫人の嫁入りの付き人として秦に送った。百里傒は秦から逃げて宛に走ったが、楚の辺境の人に捕らえられた。
解説
関連する章句
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史記 秦本紀繆公の子四十人、其の太子嵤代はりて立つ。是を康公と為す。康公の元年。往歳繆公の卒せしとき、晋の襄公も亦卒す。襄公の弟名は雍、秦の出なり、秦に在り。晋の趙盾之を立てんと欲し、随会をして来たりて雍を迎へしむ。秦兵を以て送りて令狐に至る。晋襄公の子を立てて反りて秦の師を撃つ。秦の師敗れ、随会来奔す。二年、秦晋を伐ち、武城を取り、令狐の役に報ゆ。四年、晋秦を伐ち、少梁を取る。六年、秦晋を伐ち、羈馬を取る。河曲に戦ひ、大いに晋の軍を敗る。晋人随会の秦に在りて乱を為すを患ひ、乃ち魏讎余をして詳りて反かしめ、会と合謀し、詐りて会を得たり。会遂に晋に帰る。康公立つこと十二年にして卒し、子共公立つ。共公の二年、晋の趙穿其の君霊公を弒す。三年、楚の荘王彊く、北のかた兵雒に至り、周の鼎を問ふ。共公立つこと五年にして卒し、子桓公立つ。桓公の三年、晋我が一将を敗る。十年、楚の荘王鄭を服し、北のかた晋の兵を河上に敗る。是の時に当たり、楚霸たり、会盟を為して諸侯を合す。二十四年、晋の厲公初めて立ち、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と合謀して晋を撃つ。二十六年、晋諸侯を率ゐて秦を伐つ。秦の軍敗走し、追ひて涇に至りて還る。桓公立つこと二十七年にして卒し、子景公立つ。景公の四年、晋の欒書其の君厲公を弒す。十五年、鄭を救ひ、晋の兵を櫟に敗る。是の時晋の悼公盟主為り。十八年、晋の悼公彊く、数諸侯を会し、率ゐて以て秦を伐ち、秦の軍を敗る。秦の軍走り、晋の兵之を追ひ、遂に涇を渡り、棫林に至りて還る。二十七年、景公晋に如き、平公と盟ひ、已にして之に背く。三十六年、楚の公子囲其の君を弒して自立す。是を霊王と為す。
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史記 秦本紀周の宣王乃ち荘公の昆弟五人を召し、兵七千人を与へ、西戎を伐たしむ。之を破る。是に於て復た秦仲の後に予へ、及び其の先の大駱の地犬丘并せて之を有たしめ、西垂の大夫と為す。荘公其の故の西犬丘に居り、子三人を生む。其の長男は世父なり。世父曰く、「戎我が大父仲を殺す。我戎王を殺すに非ずんば則ち敢へて邑に入らず」と。遂に将として戎を撃ち、其の弟襄公に譲る。襄公太子と為る。荘公立つこと四十四年にして卒し、太子襄公代はりて立つ。襄公の元年、女弟繆嬴を以て豊王の妻と為す。襄公の二年、戎犬丘を囲む。世父之を撃ち、戎人の虜とする所と為る。歳余にして、復た世父を帰す。七年春、周の幽王褒姒を用ゐて太子を廃し、褒姒の子を立てて適と為し、数諸侯を欺く。諸侯之に叛く。西戎の犬戎申侯と周を伐ち、幽王を酈山の下に殺す。而して秦の襄公兵を将ゐて周を救ひ、戦ふこと甚だ力め、功有り。周犬戎の難を避け、東のかた雒邑に徙る。襄公兵を以て周の平王を送る。平王襄公を封じて諸侯と為し、之に岐以西の地を賜ふ。曰く、「戎無道にして、我が岐・豊の地を侵奪す。秦能く戎を攻め逐はば、即ち其の地を有たん」と。与に誓ひ、之を封爵す。襄公是に於て始めて国し、諸侯と使を通じ聘享の礼をす。乃ち騮駒・黄牛・羝羊各三を用ゐて、上帝を西畤に祠る。十二年、戎を伐ちて岐に至りて卒す。文公を生む。文公の元年、西垂宮に居る。三年、文公兵七百人を以て東に猟す。四年、汧渭の会に至る。曰く、「昔周我が先の秦嬴を此に邑し、後卒に諸侯と為るを獲たり」と。乃ち之に居ることを卜するに、占に吉と曰ふ。即ち之に邑を営む。十年、初めて鄜畤を為り、三牢を用ゐる。十三年、初めて史有りて以て事を紀し、民多く化す。十六年、文公兵を以て戎を伐ち、戎敗走す。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 秦本紀是に於て文公遂に周の余民を収めて之を有ち、地岐に至り、岐以東は之を周に献ず。十九年、陳宝を得。二十年、法に初めて三族の罪有り。二十七年、南山の大梓を伐ち、豊大特あり。四十八年、文公の太子卒す。謚を賜ひて竫公と為す。竫公の長子を太子と為す。是れ文公の孫なり。五十年、文公卒し、西山に葬る。竫公の子立つ。是を寧公と為す。寧公の二年、公徙りて平陽に居る。兵を遣はして蕩社を伐つ。三年、亳と戦ふ。亳王戎に奔り、遂に蕩社を滅ぼす。四年、魯の公子翬其の君隠公を弒す。十二年、蕩氏を伐ちて、之を取る。寧公生まれて十歳にして立ち、立つこと十二年にして卒し、西山に葬る。子三人を生む。長男武公太子と為る。武公の弟徳公は、同母にして魯姫の子なり。出子を生む。寧公卒し、大庶長弗忌・威塁・三父太子を廃して出子を立てて君と為す。出子の六年、三父等復た共に人をして出子を賊殺せしむ。出子生まれて五歳にして立ち、立つこと六年にして卒す。三父等乃ち復た故の太子武公を立つ。武公の元年、彭戯氏を伐ち、華山の下に至り、平陽の封宮に居る。三年、三父等を誅して三族を夷す、其の出子を殺せしを以てなり。鄭の高渠瞇其の君昭公を殺す。十年、邽・冀の戎を伐ち、初めて之を県とす。十一年、初めて杜・鄭を県とす。小虢を滅ぼす。十三年、斉人管至父・連称等其の君襄公を殺して公孫無知を立つ。晋霍・魏・耿を滅ぼす。斉の雍廩無知・管至父等を殺して斉の桓公を立つ。斉・晋彊国と為る。十九年、晋の曲沃始めて晋侯と為る。斉の桓公鄄に伯たり。二十年、武公卒し、雍の平陽に葬る。初めて人を以て死に従はしむ。死に従ふ者六十六人。子一人有り、名を白と曰ふ。白立たず、平陽に封ず。其の弟徳公を立つ。
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史記 秦本紀百里傒譲りて曰く、「臣は臣の友蹇叔に及ばず。蹇叔は賢にして世知る莫し。臣常に游びて斉に困しみ、食を銍人に乞ふ。蹇叔臣を収む。臣因りて斉君無知に事へんと欲す。蹇叔臣を止む。臣斉の難を脱るるを得て、遂に周に之く。周の王子穨牛を好む。臣牛を養ふを以て之に干む。穨臣を用ゐんと欲するに及び、蹇叔臣を止む。臣去りて、誅せられざるを得たり。虞君に事ふ。蹇叔臣を止む。臣虞君の臣を用ゐざるを知るも、臣誠に禄爵を私利し、且く留まる。再び其の言を用ゐて、脱るるを得、一たび用ゐずして、虞君の難に及ぶ。是を以て其の賢を知る」と。是に於て繆公人をして幣を厚くして蹇叔を迎へしめ、以て上大夫と為す。秋、繆公自ら将として晋を伐ち、河曲に戦ふ。晋の驪姫乱を作し、太子申生新城に死し、重耳・夷吾出奔す。九年、斉の桓公諸侯を葵丘に会す。晋の献公卒す。驪姫の子奚斉を立つ。其の臣里克奚斉を殺す。荀息卓子を立つ。克又卓子及び荀息を殺す。夷吾人をして秦に請はしめ、晋に入らんことを求む。是に於て繆公之を許し、百里傒をして兵を将ゐて夷吾を送らしむ。夷吾謂ひて曰く、「誠に立つを得ば、請ふ晋の河西の八城を割きて秦に与へん」と。至るに及び、已に立ちて、丕鄭をして秦に謝せしめ、約に背きて河西の城を与へず、而して里克を殺す。丕鄭之を聞き、恐れ、因りて繆公と謀りて曰く、「晋人夷吾を欲せず、実は重耳を欲す。今秦の約に背きて里克を殺すは、皆呂甥・郤芮の計なり。願はくは君利を以て急ぎ呂・郤を召せ。呂・郤至らば、則ち更めて重耳を入るること便ならん」と。繆公之を許し、人をして丕鄭と帰り、呂・郤を召さしむ。呂・郤等丕鄭に間有るを疑ひ、乃ち夷吾に言ひて丕鄭を殺す。丕鄭の子丕豹秦に奔り、繆公に説きて曰く、「晋君無道にして、百姓親しまず、伐つ可し」と。繆公曰く、「百姓苟も便ならずんば、何の故に能く其の大臣を誅せんや。能く其の大臣を誅す、此れ其の調ふなり」と。
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史記 秦本紀秦の悼公立つこと十四年にして卒し、子厲共公立つ。孔子悼公の十二年を以て卒す。厲共公の二年、蜀人来たりて賂す。十六年、河の旁らに塹す。兵二万を以て大荔を伐ち、其の王城を取る。二十一年、初めて頻陽を県とす。晋武成を取る。二十四年、晋乱れ、智伯を殺し、其の国を趙・韓・魏に分かつ。二十五年、智開邑人と来奔す。三十三年、義渠を伐ち、其の王を虜にす。三十四年、日食あり。厲共公卒し、子躁公立つ。躁公の二年、南鄭反く。十三年、義渠来たりて伐ち、渭南に至る。十四年、躁公卒し、其の弟懐公を立つ。懐公の四年、庶長朝大臣と懐公を囲む。懐公自殺す。懐公の太子を昭子と曰ふ、蚤く死す。大臣乃ち太子昭子の子を立つ。是を霊公と為す。霊公は、懐公の孫なり。霊公の六年、晋少梁に城く。秦之を撃つ。十三年、籍姑に城く。霊公卒し、子献公立つを得ず。霊公の季父悼子を立つ。是を簡公と為す。簡公は、昭子の弟にして懐公の子なり。簡公の六年、吏をして初めて剣を帯びしむ。洛に塹す。重泉に城く。十六年にして卒し、子恵公立つ。恵公の十二年、子出子生まる。十三年、蜀を伐ち、南鄭を取る。恵公卒し、出子立つ。出子の二年、庶長改霊公の子献公を河西に迎へて之を立つ。出子及び其の母を殺し、之を淵の旁らに沈む。秦往者数君を易へ、君臣乖乱するを以て、故に晋復た彊く、秦の河西の地を奪ふ。献公の元年、従死を止む。二年、櫟陽に城く。四年正月庚寅、孝公生まる。十一年、周の太史儋献公に見えて曰く、「周は故秦国と合して別る。別れて五百歳にして復た合し、合して十七歳にして霸王出でん」と。十六年、桃冬に花さく。十八年、金を櫟陽に雨らす。
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