史記 / 秦本紀
於是文公遂收周餘民有之,地至岐,岐以東獻之周。十九年,得陳寶。二十年,法初有三族之罪。二十七年,伐南山大梓,豐大特。四十八年,文公太子卒,賜謚為竫公。竫公之長子為太子,是文公孫也。五十年,文公卒,葬西山。竫公子立,是為寧公。寧公二年,公徙居平陽。遣兵伐蕩社。三年,與亳戰,亳王奔戎,遂滅蕩社。四年,魯公子翬弒其君隱公。十二年,伐蕩氏,取之。寧公生十歲立,立十二年卒,葬西山。生子三人,長男武公為太子。武公弟德公,同母魯姬子。生出子。寧公卒,大庶長弗忌、威壘、三父廢太子而立出子為君。出子六年,三父等復共令人賊殺出子。出子生五歲立,立六年卒。三父等乃復立故太子武公。武公元年,伐彭戲氏,至于華山下,居平陽封宮。三年,誅三父等而夷三族,以其殺出子也。鄭高渠瞇殺其君昭公。十年,伐邽、冀戎,初縣之。十一年,初縣杜、鄭。滅小虢。十三年,齊人管至父、連稱等殺其君襄公而立公孫無知。晉滅霍、魏、耿。齊雍廩殺無知、管至父等而立齊桓公。齊、晉為彊國。十九年,晉曲沃始為晉侯。齊桓公伯於鄄。二十年,武公卒,葬雍平陽。初以人從死,從死者六十六人。有子一人,名曰白,白不立,封平陽。立其弟德公。
新字:於是文公遂収周余民有之,地至岐,岐以東献之周。十九年,得陳宝。二十年,法初有三族之罪。二十七年,伐南山大梓,豊大特。四十八年,文公太子卒,賜謚為竫公。竫公之長子為太子,是文公孫也。五十年,文公卒,葬西山。竫公子立,是為寧公。寧公二年,公徙居平陽。遣兵伐蕩社。三年,与亳戦,亳王奔戎,遂滅蕩社。四年,魯公子翬弒其君隠公。十二年,伐蕩氏,取之。寧公生十歳立,立十二年卒,葬西山。生子三人,長男武公為太子。武公弟徳公,同母魯姫子。生出子。寧公卒,大庶長弗忌、威塁、三父廃太子而立出子為君。出子六年,三父等復共令人賊殺出子。出子生五歳立,立六年卒。三父等乃復立故太子武公。武公元年,伐彭戯氏,至于華山下,居平陽封宮。三年,誅三父等而夷三族,以其殺出子也。鄭高渠瞇殺其君昭公。十年,伐邽、冀戎,初県之。十一年,初県杜、鄭。滅小虢。十三年,斉人管至父、連称等殺其君襄公而立公孫無知。晋滅霍、魏、耿。斉雍廩殺無知、管至父等而立斉桓公。斉、晋為彊国。十九年,晋曲沃始為晋侯。斉桓公伯於鄄。二十年,武公卒,葬雍平陽。初以人従死,従死者六十六人。有子一人,名曰白,白不立,封平陽。立其弟徳公。
書き下し
是に於て文公遂に周の余民を収めて之を有ち、地岐に至り、岐以東は之を周に献ず。十九年、陳宝を得。二十年、法に初めて三族の罪有り。二十七年、南山の大梓を伐ち、豊大特あり。四十八年、文公の太子卒す。謚を賜ひて竫公と為す。竫公の長子を太子と為す。是れ文公の孫なり。五十年、文公卒し、西山に葬る。竫公の子立つ。是を寧公と為す。寧公の二年、公徙りて平陽に居る。兵を遣はして蕩社を伐つ。三年、亳と戦ふ。亳王戎に奔り、遂に蕩社を滅ぼす。四年、魯の公子翬其の君隠公を弒す。十二年、蕩氏を伐ちて、之を取る。寧公生まれて十歳にして立ち、立つこと十二年にして卒し、西山に葬る。子三人を生む。長男武公太子と為る。武公の弟徳公は、同母にして魯姫の子なり。出子を生む。寧公卒し、大庶長弗忌・威塁・三父太子を廃して出子を立てて君と為す。出子の六年、三父等復た共に人をして出子を賊殺せしむ。出子生まれて五歳にして立ち、立つこと六年にして卒す。三父等乃ち復た故の太子武公を立つ。武公の元年、彭戯氏を伐ち、華山の下に至り、平陽の封宮に居る。三年、三父等を誅して三族を夷す、其の出子を殺せしを以てなり。鄭の高渠瞇其の君昭公を殺す。十年、邽・冀の戎を伐ち、初めて之を県とす。十一年、初めて杜・鄭を県とす。小虢を滅ぼす。十三年、斉人管至父・連称等其の君襄公を殺して公孫無知を立つ。晋霍・魏・耿を滅ぼす。斉の雍廩無知・管至父等を殺して斉の桓公を立つ。斉・晋彊国と為る。十九年、晋の曲沃始めて晋侯と為る。斉の桓公鄄に伯たり。二十年、武公卒し、雍の平陽に葬る。初めて人を以て死に従はしむ。死に従ふ者六十六人。子一人有り、名を白と曰ふ。白立たず、平陽に封ず。其の弟徳公を立つ。
現代語訳
こうして文公はついに周の遺民を収めて領有し、領地は岐にまで及び、岐から東の地は周に献上した。十九年、陳宝(石の神)を得た。二十年、法律ではじめて三族(父母・兄弟・妻子)まで罪を及ぼす刑を設けた。二十七年、南山の大きな梓の木を伐ったところ、豊水に大きな牛の精が現れた。四十八年、文公の太子が亡くなった。竫公という諡を賜った。竫公の長子を太子とした。これは文公の孫である。五十年、文公が亡くなり、西山に葬られた。竫公の子が立った。これが寧公である。寧公の二年、公は平陽に移り住んだ。兵を遣わして蕩社を討った。三年、亳と戦った。亳王は戎の地へ逃げ、ついに蕩社を滅ぼした。四年、魯の公子翬がその君主の隠公を弑した。十二年、蕩氏を討って、その地を取った。寧公は十歳で即位し、在位十二年で亡くなり、西山に葬られた。三人の子がいた。長男の武公が太子となった。武公の弟の徳公は、母を同じくし、魯姫の子である。(もう一人の側室は)出子を生んだ。寧公が亡くなると、大庶長の弗忌・威塁・三父が太子を廃して出子を君主に立てた。出子の六年、三父らは再びともに人を使って出子を殺させた。出子は五歳で即位し、在位六年で殺された。三父らはそこで再びもとの太子の武公を立てた。武公の元年、彭戯氏を討ち、華山のふもとに至り、平陽の封宮に住んだ。三年、三父らを誅し、その三族を皆殺しにした。出子を殺したからである。鄭の高渠瞇がその君主の昭公を殺した。十年、邽と冀の戎を討ち、はじめてそこを県とした。十一年、はじめて杜と鄭を県とした。小虢を滅ぼした。十三年、斉の人の管至父・連称らがその君主の襄公を殺し、公孫無知を立てた。晋が霍・魏・耿を滅ぼした。斉の雍廩が無知と管至父らを殺し、斉の桓公を立てた。斉と晋が強国となった。十九年、晋の曲沃の家がはじめて晋侯となった。斉の桓公が鄄で覇者となった。二十年、武公が亡くなり、雍の平陽に葬られた。このときはじめて人を殉死させた。殉死した者は六十六人であった。武公には一人の子がいて、名を白といった。白は立てられず、平陽に封じられた。武公の弟の徳公を立てた。
解説
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史記 秦本紀周の宣王乃ち荘公の昆弟五人を召し、兵七千人を与へ、西戎を伐たしむ。之を破る。是に於て復た秦仲の後に予へ、及び其の先の大駱の地犬丘并せて之を有たしめ、西垂の大夫と為す。荘公其の故の西犬丘に居り、子三人を生む。其の長男は世父なり。世父曰く、「戎我が大父仲を殺す。我戎王を殺すに非ずんば則ち敢へて邑に入らず」と。遂に将として戎を撃ち、其の弟襄公に譲る。襄公太子と為る。荘公立つこと四十四年にして卒し、太子襄公代はりて立つ。襄公の元年、女弟繆嬴を以て豊王の妻と為す。襄公の二年、戎犬丘を囲む。世父之を撃ち、戎人の虜とする所と為る。歳余にして、復た世父を帰す。七年春、周の幽王褒姒を用ゐて太子を廃し、褒姒の子を立てて適と為し、数諸侯を欺く。諸侯之に叛く。西戎の犬戎申侯と周を伐ち、幽王を酈山の下に殺す。而して秦の襄公兵を将ゐて周を救ひ、戦ふこと甚だ力め、功有り。周犬戎の難を避け、東のかた雒邑に徙る。襄公兵を以て周の平王を送る。平王襄公を封じて諸侯と為し、之に岐以西の地を賜ふ。曰く、「戎無道にして、我が岐・豊の地を侵奪す。秦能く戎を攻め逐はば、即ち其の地を有たん」と。与に誓ひ、之を封爵す。襄公是に於て始めて国し、諸侯と使を通じ聘享の礼をす。乃ち騮駒・黄牛・羝羊各三を用ゐて、上帝を西畤に祠る。十二年、戎を伐ちて岐に至りて卒す。文公を生む。文公の元年、西垂宮に居る。三年、文公兵七百人を以て東に猟す。四年、汧渭の会に至る。曰く、「昔周我が先の秦嬴を此に邑し、後卒に諸侯と為るを獲たり」と。乃ち之に居ることを卜するに、占に吉と曰ふ。即ち之に邑を営む。十年、初めて鄜畤を為り、三牢を用ゐる。十三年、初めて史有りて以て事を紀し、民多く化す。十六年、文公兵を以て戎を伐ち、戎敗走す。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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史記 秦本紀秦の悼公立つこと十四年にして卒し、子厲共公立つ。孔子悼公の十二年を以て卒す。厲共公の二年、蜀人来たりて賂す。十六年、河の旁らに塹す。兵二万を以て大荔を伐ち、其の王城を取る。二十一年、初めて頻陽を県とす。晋武成を取る。二十四年、晋乱れ、智伯を殺し、其の国を趙・韓・魏に分かつ。二十五年、智開邑人と来奔す。三十三年、義渠を伐ち、其の王を虜にす。三十四年、日食あり。厲共公卒し、子躁公立つ。躁公の二年、南鄭反く。十三年、義渠来たりて伐ち、渭南に至る。十四年、躁公卒し、其の弟懐公を立つ。懐公の四年、庶長朝大臣と懐公を囲む。懐公自殺す。懐公の太子を昭子と曰ふ、蚤く死す。大臣乃ち太子昭子の子を立つ。是を霊公と為す。霊公は、懐公の孫なり。霊公の六年、晋少梁に城く。秦之を撃つ。十三年、籍姑に城く。霊公卒し、子献公立つを得ず。霊公の季父悼子を立つ。是を簡公と為す。簡公は、昭子の弟にして懐公の子なり。簡公の六年、吏をして初めて剣を帯びしむ。洛に塹す。重泉に城く。十六年にして卒し、子恵公立つ。恵公の十二年、子出子生まる。十三年、蜀を伐ち、南鄭を取る。恵公卒し、出子立つ。出子の二年、庶長改霊公の子献公を河西に迎へて之を立つ。出子及び其の母を殺し、之を淵の旁らに沈む。秦往者数君を易へ、君臣乖乱するを以て、故に晋復た彊く、秦の河西の地を奪ふ。献公の元年、従死を止む。二年、櫟陽に城く。四年正月庚寅、孝公生まる。十一年、周の太史儋献公に見えて曰く、「周は故秦国と合して別る。別れて五百歳にして復た合し、合して十七歳にして霸王出でん」と。十六年、桃冬に花さく。十八年、金を櫟陽に雨らす。
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史記 秦本紀繆公の子四十人、其の太子嵤代はりて立つ。是を康公と為す。康公の元年。往歳繆公の卒せしとき、晋の襄公も亦卒す。襄公の弟名は雍、秦の出なり、秦に在り。晋の趙盾之を立てんと欲し、随会をして来たりて雍を迎へしむ。秦兵を以て送りて令狐に至る。晋襄公の子を立てて反りて秦の師を撃つ。秦の師敗れ、随会来奔す。二年、秦晋を伐ち、武城を取り、令狐の役に報ゆ。四年、晋秦を伐ち、少梁を取る。六年、秦晋を伐ち、羈馬を取る。河曲に戦ひ、大いに晋の軍を敗る。晋人随会の秦に在りて乱を為すを患ひ、乃ち魏讎余をして詳りて反かしめ、会と合謀し、詐りて会を得たり。会遂に晋に帰る。康公立つこと十二年にして卒し、子共公立つ。共公の二年、晋の趙穿其の君霊公を弒す。三年、楚の荘王彊く、北のかた兵雒に至り、周の鼎を問ふ。共公立つこと五年にして卒し、子桓公立つ。桓公の三年、晋我が一将を敗る。十年、楚の荘王鄭を服し、北のかた晋の兵を河上に敗る。是の時に当たり、楚霸たり、会盟を為して諸侯を合す。二十四年、晋の厲公初めて立ち、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と合謀して晋を撃つ。二十六年、晋諸侯を率ゐて秦を伐つ。秦の軍敗走し、追ひて涇に至りて還る。桓公立つこと二十七年にして卒し、子景公立つ。景公の四年、晋の欒書其の君厲公を弒す。十五年、鄭を救ひ、晋の兵を櫟に敗る。是の時晋の悼公盟主為り。十八年、晋の悼公彊く、数諸侯を会し、率ゐて以て秦を伐ち、秦の軍を敗る。秦の軍走り、晋の兵之を追ひ、遂に涇を渡り、棫林に至りて還る。二十七年、景公晋に如き、平公と盟ひ、已にして之に背く。三十六年、楚の公子囲其の君を弒して自立す。是を霊王と為す。
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