史記 / 周本紀
今王使卒之周,諸侯皆生心,後舉事且不信。不若令卒為周城,以匿事端。」梁王曰:「善。」遂使城周。四十五年,周君之秦客謂周聚曰:「公不若譽秦王之孝,因以應為太后養地,秦王必喜,是公有秦交。交善,周君必以為公功。交惡,勸周君入秦者必有罪矣。」秦攻周,而周聚謂秦王曰:「為王計者不攻周。攻周,實不足以利,聲畏天下。天下以聲畏秦,必東合於齊。兵獘於周。合天下於齊,則秦不王矣。天下欲獘秦,勸王攻周。秦與天下獘,則令不行矣。」五十八年,三晉距秦。周令其相國之秦,以秦之輕也,還其行。客謂相國曰:「秦之輕重未可知也。秦欲知三國之情。公不如急見秦王曰『請為王聽東方之變』,秦王必重公。重公,是秦重周,周以取秦也;齊重,則固有周聚以收齊:是周常不失重國之交也。」秦信周,發兵攻三晉。五十九年,秦取韓陽城負黍,西周恐,倍秦,與諸侯約從,將天下銳師出伊闕攻秦,令秦無得通陽城。秦昭王怒,使將軍摎攻西周。西周君犇秦,頓首受罪,盡獻其邑三十六,口三萬。秦受其獻,歸其君於周。周君、王赧卒,周民遂東亡。秦取九鼎寶器,而遷西周公於憚狐。後七歲,秦莊襄王滅東周。東西周皆入于秦,周既不祀。
新字:今王使卒之周,諸侯皆生心,後舉事且不信。不若令卒為周城,以匿事端。」梁王曰:「善。」遂使城周。四十五年,周君之秦客謂周聚曰:「公不若誉秦王之孝,因以応為太后養地,秦王必喜,是公有秦交。交善,周君必以為公功。交悪,勧周君入秦者必有罪矣。」秦攻周,而周聚謂秦王曰:「為王計者不攻周。攻周,実不足以利,声畏天下。天下以声畏秦,必東合於斉。兵獘於周。合天下於斉,則秦不王矣。天下欲獘秦,勧王攻周。秦与天下獘,則令不行矣。」五十八年,三晋距秦。周令其相国之秦,以秦之軽也,還其行。客謂相国曰:「秦之軽重未可知也。秦欲知三国之情。公不如急見秦王曰『請為王聴東方之変』,秦王必重公。重公,是秦重周,周以取秦也;斉重,則固有周聚以収斉:是周常不失重国之交也。」秦信周,発兵攻三晋。五十九年,秦取韓陽城負黍,西周恐,倍秦,与諸侯約従,将天下鋭師出伊闕攻秦,令秦無得通陽城。秦昭王怒,使将軍摎攻西周。西周君犇秦,頓首受罪,尽献其邑三十六,口三万。秦受其献,帰其君於周。周君、王赧卒,周民遂東亡。秦取九鼎宝器,而遷西周公於憚狐。後七歳,秦荘襄王滅東周。東西周皆入于秦,周既不祀。
書き下し
今王卒をして周に之かしむれば、諸侯皆心を生じ、後に事を挙ぐるも且に信ぜられざらんとす。卒をして周の為に城かしめ、以て事端を匿すに若かず」と。梁王曰く、「善し」と。遂に周に城かしむ。四十五年、周君の秦に之く客周聚に謂ひて曰く、「公秦王の孝を誉め、因りて応を以て太后の養地と為すに若かず。秦王必ず喜び、是れ公秦の交はり有るなり。交はり善ければ、周君必ず以て公の功と為さん。交はり悪しければ、周君に秦に入るを勧めし者必ず罪有らん」と。秦周を攻む。而して周聚秦王に謂ひて曰く、「王の為に計る者は周を攻めず。周を攻むるは、実は以て利するに足らず、声は天下を畏れしむ。天下声を以て秦を畏れ、必ず東のかた斉に合せん。兵周に獘れ、天下を斉に合せしむれば、則ち秦王たらず。天下秦を獘れしめんと欲し、王に周を攻むるを勧む。秦天下と獘れば、則ち令行はれず」と。五十八年、三晋秦を距ぐ。周其の相国をして秦に之かしむるに、秦の軽んずるを以て、其の行を還す。客相国に謂ひて曰く、「秦の軽重未だ知る可からず。秦三国の情を知らんと欲す。公急ぎ秦王に見えて曰ふに如かず、『請ふ王の為に東方の変を聴かん』と。秦王必ず公を重んぜん。公を重んずるは、是れ秦周を重んずるなり、周以て秦を取るなり。斉重んずれば、則ち固より周聚有りて以て斉を収む。是れ周常に重国の交はりを失はざるなり」と。秦周を信じ、兵を発して三晋を攻む。五十九年、秦韓の陽城・負黍を取る。西周恐れ、秦に倍き、諸侯と従を約し、天下の鋭師を将ゐて伊闕を出でて秦を攻め、秦をして陽城に通ずるを得無からしめんとす。秦の昭王怒り、将軍摎をして西周を攻めしむ。西周の君秦に犇り、頓首して罪を受け、尽く其の邑三十六、口三万を献ず。秦其の献を受け、其の君を周に帰す。周君・王赧卒し、周の民遂に東に亡ぐ。秦九鼎宝器を取り、而して西周公を憚狐に遷す。後七歳、秦の荘襄王東周を滅ぼす。東西周皆秦に入り、周既に祀られず。
現代語訳
今、王が兵を周に行かせれば、諸侯はみな疑いの心を抱き、後で事を起こそうとしても信用されなくなろう。兵には周のために城を築かせることにして、本当の狙いを隠しておくのがよい。」梁王は「よかろう」と言った。こうして周に城を築かせた。四十五年、周君が秦に行こうとしたとき、ある客が周聚に言った。「あなたは秦王の孝行ぶりをほめ、応の地を秦の太后の化粧料の地として献上するよう周君に勧めるのがよい。秦王は必ず喜び、あなたは秦との交わりを得ることになる。交わりがうまくいけば、周君は必ずあなたの手柄とするであろう。うまくいかなければ、周君に秦へ行くよう勧めた者が必ず罪を問われるであろう。」秦が周を攻めた。そこで周聚は秦王に言った。「王のためを思う者なら周を攻めない。周を攻めても、実際には得るものは少なく、評判だけは天下を恐れさせる。天下の諸侯はその評判のために秦を恐れ、必ず東の斉と手を結ぶであろう。秦の兵は周で疲れ、天下を斉のもとにまとめさせてしまえば、秦は王者になれない。天下の諸侯は秦を疲れさせたいので、王に周を攻めるよう勧めているのだ。秦が天下と争って疲れれば、秦の命令は行われなくなる。」五十八年、三晋(韓・魏・趙)が秦に抵抗した。周はその相国を秦に遣わそうとしたが、秦に軽んじられると思って、途中で引き返させた。ある客が相国に言った。「秦があなたを軽んじるか重んじるかはまだわからない。秦は三国の実情を知りたがっている。あなたは急いで秦王に会って『王のために東方の動きを探ってまいりたい』と言うのがよい。秦王は必ずあなたを重んじるであろう。あなたを重んじるということは、秦が周を重んじるということで、周は秦を味方につけることになる。斉が重んじられるようになっても、もともと周聚がいて斉と結んでいる。こうすれば周は常に大国との交わりを失わないですむ。」秦は周を信用し、兵を出して三晋を攻めた。五十九年、秦は韓の陽城・負黍を取った。西周は恐れて秦に背き、諸侯と合従の盟約を結び、天下の精鋭を率いて伊闕から出て秦を攻め、秦が陽城に通じられないようにしようとした。秦の昭王は怒り、将軍の摎に西周を攻めさせた。西周の君は秦に走り、頭を地につけて罪を認め、その領地の三十六邑と人口三万をすべて献上した。秦はその献上を受け、西周の君を周に帰した。周君と王赧が亡くなり、周の民はついに東へ逃げ去った。秦は九鼎と宝器を奪い、西周公を憚狐に移した。その七年後、秦の荘襄王が東周を滅ぼした。東周・西周はともに秦のものとなり、周の祭祀はついに絶えた。
解説
関連する章句
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史記 秦本紀其の十月、五大夫陵趙の邯鄲を攻む。四十九年正月、益卒を発して陵を佐く。陵の戦ひ善からず、免ぜられ、王齕代はりて将たり。其の十月、将軍張唐魏を攻む。蔡尉捐弗守と為し、還りて之を斬る。五十年十月、武安君白起罪有り、士伍と為り、陰密に遷さる。張唐鄭を攻め、之を抜く。十二月、益卒を発して汾城の旁らに軍す。武安君白起罪有りて、死す。齕邯鄲を攻むるも、抜かず、去りて、還りて汾の軍に奔る。二月余晋の軍を攻め、首を斬ること六千。晋・楚の流れて河に死する者二万人。汾城を攻め、即ち唐に従ひて寧新中を抜く。寧新中名を安陽と更む。初めて河橋を作る。五十一年、将軍摎韓を攻め、陽城・負黍を取り、首を斬ること四万。趙を攻め、二十余県を取り、首虜九万。西周の君秦に背き、諸侯と従を約し、天下の鋭兵を将ゐて伊闕を出でて秦を攻め、秦をして陽城に通ずるを得毋からしめんとす。是に於て秦将軍摎をして西周を攻めしむ。西周の君走り来たりて自ら帰し、頓首して罪を受け、尽く其の邑三十六城、口三万を献ず。秦王献を受け、其の君を周に帰す。五十二年、周の民東に亡げ、其の器九鼎秦に入る。周初めて亡ぶ。五十三年、天下来賓す。魏後る。秦摎をして魏を伐たしめ、呉城を取る。韓王入朝し、魏国を委ねて令を聴く。五十四年、王上帝を雍に郊見す。五十六年秋、昭襄王卒し、子孝文王立つ。唐八子を尊びて唐太后と為し、而して其の葬を先王に合す。韓王衰絰して入りて弔祠す。諸侯皆其の将相をして来たりて弔祠せしめ、喪事を視しむ。孝文王の元年、罪人を赦し、先王の功臣を修め、親戚を褒厚し、苑囿を弛む。孝文王喪を除き、十月己亥に即位し、三日辛丑に卒し、子荘襄王立つ。
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史記 周本紀桓公卒し、子威公代はりて立つ。威公卒し、子恵公代はりて立つ。乃ち其の少子を鞏に封じて以て王を奉ぜしめ、東周の恵公と号す。威烈王の二十三年、九鼎震ふ。韓・魏・趙に命じて諸侯と為す。二十四年、崩じ、子安王驕立つ。是の歳盗楚の声王を殺す。安王立つこと二十六年にして崩じ、子烈王喜立つ。烈王の二年、周の太史儋秦の献公に見えて曰く、「始め周と秦国と合して別れ、別れて五百載にして復た合し、合して十七歳にして霸王の者出でん」と。十年、烈王崩じ、弟扁立つ。是を顕王と為す。顕王の五年、秦の献公を賀す。献公伯と称す。九年、文武の胙を秦の孝公に致す。二十五年、秦諸侯を周に会す。二十六年、周伯を秦の孝公に致す。三十三年、秦の恵王を賀す。三十五年、文武の胙を秦の恵王に致す。四十四年、秦の恵王王と称す。其の後諸侯皆王と為る。四十八年、顕王崩じ、子慎靚王定立つ。慎靚王立つこと六年にして崩じ、子赧王延立つ。王赧の時東西周分かれて治む。王赧都を西周に徙す。西周の武公の共太子死し、五庶子有り、適の立つる毋し。司馬翦楚王に謂ひて曰く、「地を以て公子咎に資し、為に太子と為さんことを請ふに如かず」と。左成曰く、「不可なり。周聴かずんば、是れ公の知困しみて交周に疏ならん。周君に孰れを立てんと欲するかを請ひ、以て微かに翦に告ぐるに如かず。翦請ひて楚をして之に資するに地を以てせしめん」と。果たして公子咎を立てて太子と為す。八年、秦宜陽を攻め、楚之を救ふ。而して楚周の秦の為にするを以ての故に、将に之を伐たんとす。蘇代周の為に楚王に説きて曰く、「何を以てか周を以て秦の禍と為す。周の秦の為にすること楚よりも甚だしと言ふ者は、周をして秦に入らしめんと欲するなり。故に周秦と謂ふなり。
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史記 周本紀周其の解く可からざるを知らば、必ず秦に入らん。此れ秦の為に周を取るの精なる者なり。王の為に計る者は、周秦に於てするも因りて之を善しとし、秦に於てせざるも亦之を善しと言ひ、以て之を秦に疏ならしめん。周秦に絶たば、必ず郢に入らん」と。秦道を両周の間に借り、将に以て韓を伐たんとす。周恐る、之を借さば韓を畏れ、借さずんば秦を畏る。史厭周君に謂ひて曰く、「何ぞ人をして韓の公叔に謂はしめて曰はざる、『秦の敢へて周を絶ちて韓を伐つ者は、東周を信ずればなり。公何ぞ周に地を与へ、質を発して之を楚に使はしめざる』と。秦必ず楚を疑ひて周を信ぜず、是れ韓伐たれざるなり。又秦に謂ひて曰はん、『韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり。周敢へて受けずんばあらず』と。秦必ず辞無くして周をして受けざらしめん。是れ地を韓に受けて秦に聴くなり」と。秦西周の君を召す。西周の君往くことを悪む。故に人をして韓王に謂はしめて曰く、「秦西周の君を召すは、将に以て王の南陽を攻めしめんとするなり。王何ぞ兵を南陽に出ださざる。周君将に以て辞を秦に為さんとす。周君秦に入らずんば、秦必ず敢へて河を踰えて南陽を攻めざらん」と。東周西周と戦ひ、韓西周を救ふ。或ひと東周の為に韓王に説きて曰く、「西周は故の天子の国にして、名器重宝多し。王兵を案じて出だす毋くんば、以て東周に徳とす可く、而して西周の宝必ず以て尽くす可し」と。王赧成君に謂ふ。楚雍氏を囲む。韓甲と粟とを東周に徴す。東周の君恐れ、蘇代を召して之に告ぐ。代曰く、「君何ぞ是を患へん。臣能く韓をして甲と粟とを周に徴する毋からしめ、又能く君の為に高都を得ん」と。周君曰く、「子苟も能くせば、請ふ国を以て子に聴かん」と。代韓の相国に見えて曰く、「楚雍氏を囲む、期は三月なり。今五月にして抜く能はず、是れ楚病めるなり。今相国乃ち甲と粟とを周に徴す、是れ楚に病めるを告ぐるなり」と。韓の相国曰く、「善し。使者已に行けり」と。代曰く、「何ぞ周に高都を与へざる」と。
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史記 楚世家韓嘗て二十万の衆を以て晋の城下に辱めらる。鋭士死し、中士傷つき、而して晋抜けず。公の百韓無くして以て周を図るは、此れ天下の知る所なり。夫れ怨みを両周に結びて以て騶・魯の心を塞ぎ、交はりを斉に絶ち、声を天下に失はば、其の事を為すこと危ふし。夫れ両周を危ふくして以て三川を厚くせば、方城の外必ず韓の為に弱められん。何を以て其の然るを知る。西周の地は、長きを絶ちて短きを補ふも、百里に過ぎず。名は天下の共主為るも、其の地を裂くも以て国を肥やすに足らず、其の衆を得るも以て兵を勁くするに足らず。之を攻むること無しと雖も、名は君を弑すと為す。然り而して事を好むの君、攻むるを喜ぶの臣、号を発し兵を用ふるに、未だ嘗て周を以て終始と為さざるはあらず。是れ何ぞや。祭器の焉に在るを見て、器の至らんことを欲して君を弑するの乱を忘るればなり。今韓器の楚に在るを以て、臣恐らくは天下器を以て楚を讎とせん。臣請ふ之を譬へん。夫れ虎の肉は臊く、其の兵は身を利す。人猶ほ之を攻む。若し沢中の麋をして虎の皮を蒙らしめば、人の之を攻むること必ず虎に万せん。楚の地を裂かば、以て国を肥やすに足り、楚の名を詘(くじ)かば、以て主を尊ぶに足る。今子将に以て天下の共主を誅残し、三代の伝器に居り、三翮六翼を呑みて、以て世主に高ぶらんと欲す。貪に非ずして何ぞ。周書に曰く『起たんと欲して先んずること無かれ』と。故に器南すれば則ち兵至らん」と。是に於て楚の計輟みて行はれず。十九年、秦楚を伐つ。楚の軍敗れ、上庸・漢北の地を割きて秦に予ふ。二十年、秦の将白起我が西陵を抜く。二十一年、秦の将白起遂に我が郢を抜き、先王の墓夷陵を焼く。楚の襄王の兵散じ、遂に復た戦はず、東北のかた陳城に保つ。二十二年、秦復た我が巫・黔中郡を抜く。二十三年、襄王乃ち東地の兵を収め、十余万を得て、復た西のかた秦の抜く所の我が江旁の十五邑を取りて以て郡と為し、秦を距ぐ。
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