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史記 / 周本紀

定王元年,楚莊王伐陸渾之戎,次洛,使人問九鼎。王使王孫滿應設以辭,楚兵乃去。十年,楚莊王圍鄭,鄭伯降,已而復之。十六年,楚莊王卒。二十一年,定王崩,子簡王夷立。簡王十三年,晉殺其君厲公,迎子周於周,立為悼公。十四年,簡王崩,子靈王泄心立。靈王二十四年,齊崔杼弒其君莊公。二十七年,靈王崩,子景王貴立。景王十八年,后太子聖而蚤卒。二十年,景王愛子朝,欲立之,會崩,子丐之黨與爭立,國人立長子猛為王,子朝攻殺猛。猛為悼王。晉人攻子朝而立丐,是為敬王。敬王元年,晉人入敬王,子朝自立,敬王不得入,居澤。四年,晉率諸侯入敬王于周,子朝為臣,諸侯城周。十六年,子朝之徒復作亂,敬王奔于晉。十七年,晉定公遂入敬王于周。三十九年,齊田常殺其君簡公。四十一年,楚滅陳。孔子卒。四十二年,敬王崩,子元王仁立。元王八年,崩,子定王介立。定王十六年,三晉滅智伯,分有其地。二十八年,定王崩,長子去疾立,是為哀王。哀王立三月,弟叔襲殺哀王而自立,是為思王。思王立五月,少弟嵬攻殺思王而自立,是為考王。此三王皆定王之子。考王十五年,崩,子威烈王午立。考王封其弟于河南,是為桓公,以續周公之官職。

新字:定王元年,楚荘王伐陸渾之戎,次洛,使人問九鼎。王使王孫満応設以辞,楚兵乃去。十年,楚荘王囲鄭,鄭伯降,已而復之。十六年,楚荘王卒。二十一年,定王崩,子簡王夷立。簡王十三年,晋殺其君厲公,迎子周於周,立為悼公。十四年,簡王崩,子霊王泄心立。霊王二十四年,斉崔杼弒其君荘公。二十七年,霊王崩,子景王貴立。景王十八年,后太子聖而蚤卒。二十年,景王愛子朝,欲立之,会崩,子丐之党与争立,国人立長子猛為王,子朝攻殺猛。猛為悼王。晋人攻子朝而立丐,是為敬王。敬王元年,晋人入敬王,子朝自立,敬王不得入,居沢。四年,晋率諸侯入敬王于周,子朝為臣,諸侯城周。十六年,子朝之徒復作乱,敬王奔于晋。十七年,晋定公遂入敬王于周。三十九年,斉田常殺其君簡公。四十一年,楚滅陳。孔子卒。四十二年,敬王崩,子元王仁立。元王八年,崩,子定王介立。定王十六年,三晋滅智伯,分有其地。二十八年,定王崩,長子去疾立,是為哀王。哀王立三月,弟叔襲殺哀王而自立,是為思王。思王立五月,少弟嵬攻殺思王而自立,是為考王。此三王皆定王之子。考王十五年,崩,子威烈王午立。考王封其弟于河南,是為桓公,以続周公之官職。

書き下し

定王の元年、楚の荘王陸渾の戎を伐ち、洛に次り、人をして九鼎を問はしむ。王王孫満をして応へて設くるに辞を以てせしむ。楚の兵乃ち去る。十年、楚の荘王鄭を囲む。鄭伯降り、已にして之を復す。十六年、楚の荘王卒す。二十一年、定王崩じ、子簡王夷立つ。簡王の十三年、晋其の君厲公を殺し、子周を周より迎へ、立てて悼公と為す。十四年、簡王崩じ、子霊王泄心立つ。霊王の二十四年、斉の崔杼其の君荘公を弒す。二十七年、霊王崩じ、子景王貴立つ。景王の十八年、后の太子聖にして蚤く卒す。二十年、景王子朝を愛し、之を立てんと欲す。会崩ず。子丐の党与に立つを争ふ。国人長子猛を立てて王と為す。子朝攻めて猛を殺す。猛を悼王と為す。晋人子朝を攻めて丐を立つ。是を敬王と為す。敬王の元年、晋人敬王を入る。子朝自立し、敬王入るを得ず、沢に居る。四年、晋諸侯を率ゐて敬王を周に入る。子朝臣と為り、諸侯周に城く。十六年、子朝の徒復た乱を作し、敬王晋に奔る。十七年、晋の定公遂に敬王を周に入る。三十九年、斉の田常其の君簡公を殺す。四十一年、楚陳を滅ぼす。孔子卒す。四十二年、敬王崩じ、子元王仁立つ。元王八年にして崩じ、子定王介立つ。定王の十六年、三晋智伯を滅ぼし、分かちて其の地を有つ。二十八年、定王崩じ、長子去疾立つ。是を哀王と為す。哀王立つこと三月、弟叔襲ひて哀王を殺して自立す。是を思王と為す。思王立つこと五月、少弟嵬攻めて思王を殺して自立す。是を考王と為す。此の三王は皆定王の子なり。考王十五年にして崩じ、子威烈王午立つ。考王其の弟を河南に封ず。是を桓公と為し、以て周公の官職を続がしむ。

現代語訳

定王の元年、楚の荘王は陸渾の戎を討ち、洛水のほとりに陣を置いて、人を遣わして九鼎(王位の象徴である九つの鼎)の大きさと重さを尋ねさせた。王は王孫満に命じて、言葉を設けて応対させた。楚の兵はそこで去った。十年、楚の荘王が鄭を包囲した。鄭伯は降伏したが、やがて荘王は鄭を元に戻した。十六年、楚の荘王が亡くなった。二十一年、定王が崩じ、子の簡王夷が立った。簡王の十三年、晋ではその君主の厲公が殺され、子周を周から迎えて立て、悼公とした。十四年、簡王が崩じ、子の霊王泄心が立った。霊王の二十四年、斉の崔杼がその君主の荘公を弑した。二十七年、霊王が崩じ、子の景王貴が立った。景王の十八年、王后の生んだ太子は聡明であったが早く亡くなった。二十年、景王は子の朝を愛し、立てようとしたが、ちょうどそのとき崩じた。子の丐の一派が位を争った。国の人々は長子の猛を王に立てたが、子朝が攻めて猛を殺した。猛を悼王という。晋の人々は子朝を攻めて丐を立てた。これが敬王である。敬王の元年、晋の人々は敬王を都に入れようとした。子朝が自ら王を名乗ったので、敬王は都に入れず、沢に住んだ。四年、晋は諸侯を率いて敬王を周の都に入れた。子朝は臣下となり、諸侯は周の城壁を築いた。十六年、子朝の一派が再び乱を起こし、敬王は晋に逃げた。十七年、晋の定公はついに敬王を周の都に入れた。三十九年、斉の田常がその君主の簡公を殺した。四十一年、楚が陳を滅ぼした。孔子が亡くなった。四十二年、敬王が崩じ、子の元王仁が立った。元王は八年で崩じ、子の定王介が立った。定王の十六年、晋の三家(韓・魏・趙)が智伯を滅ぼし、その領地を分けて手に入れた。二十八年、定王が崩じ、長子の去疾が立った。これが哀王である。哀王が立って三か月で、弟の叔が襲って哀王を殺し、自ら王となった。これが思王である。思王が立って五か月で、末の弟の嵬が攻めて思王を殺し、自ら王となった。これが考王である。この三王はみな定王の子である。考王は十五年で崩じ、子の威烈王午が立った。考王はその弟を河南に封じた。これが桓公で、周公の官職を継がせた。

解説

春秋中期から戦国初期にかけての周王室の歩みを、年代を追って記した段です。冒頭の「鼎の軽重を問う」は、楚の荘王が周の都の近くまで兵を進め、王位の象徴である九鼎の大きさと重さを尋ねた故事で、周の権威を侮り、取って代わる野心を示したものとして後世の成語になりました。周の王孫満が「天命はまだ改まっていない。鼎の軽重は問うべきでない」と応じて楚を退かせたことが、他の篇に詳しく記されています。その後は王位継承をめぐる争いが相次ぎ、景王が寵愛する子を立てようとしたまま崩じると、兄弟が殺し合い、敬王は晋の力でようやく都に戻れました。定王の子三人が一年足らずで殺し合って交代した話は、周王室の無力を象徴しています。その間に斉では田常が君主を殺し、晋では三家が智伯を滅ぼして、時代は戦国へと移ります。後継者を明確に定めずにトップが去ると、組織は内部の争いで力を失い、外部の力に頼るしかなくなるのです。

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