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史記 / 周本紀

桓公卒,子威公代立。威公卒,子惠公代立,乃封其少子於鞏以奉王,號東周惠公。威烈王二十三年,九鼎震。命韓、魏、趙為諸侯。二十四年,崩,子安王驕立。是歲盜殺楚聲王。安王立二十六年,崩,子烈王喜立。烈王二年,周太史儋見秦獻公曰:「始周與秦國合而別,別五百載復合,合十七歲而霸王者出焉。」十年,烈王崩,弟扁立,是為顯王。顯王五年,賀秦獻公,獻公稱伯。九年,致文武胙於秦孝公。二十五年,秦會諸侯於周。二十六年,周致伯於秦孝公。三十三年,賀秦惠王。三十五年,致文武胙於秦惠王。四十四年,秦惠王稱王。其後諸侯皆為王。四十八年,顯王崩,子慎靚王定立。慎靚王立六年,崩,子赧王延立。王赧時東西周分治。王赧徙都西周。西周武公之共太子死,有五庶子,毋適立。司馬翦謂楚王曰:「不如以地資公子咎,為請太子。」左成曰:「不可。周不聽,是公之知困而交疏於周也。不如請周君孰欲立,以微告翦,翦請令楚資之以地。」果立公子咎為太子。八年,秦攻宜陽,楚救之。而楚以周為秦故,將伐之。蘇代為周說楚王曰:「何以周為秦之禍也?言周之為秦甚於楚者,欲令周入秦也,故謂『周秦』也。

新字:桓公卒,子威公代立。威公卒,子恵公代立,乃封其少子於鞏以奉王,号東周恵公。威烈王二十三年,九鼎震。命韓、魏、趙為諸侯。二十四年,崩,子安王驕立。是歳盗殺楚声王。安王立二十六年,崩,子烈王喜立。烈王二年,周太史儋見秦献公曰:「始周与秦国合而別,別五百載復合,合十七歳而覇王者出焉。」十年,烈王崩,弟扁立,是為顕王。顕王五年,賀秦献公,献公称伯。九年,致文武胙於秦孝公。二十五年,秦会諸侯於周。二十六年,周致伯於秦孝公。三十三年,賀秦恵王。三十五年,致文武胙於秦恵王。四十四年,秦恵王称王。其後諸侯皆為王。四十八年,顕王崩,子慎靚王定立。慎靚王立六年,崩,子赧王延立。王赧時東西周分治。王赧徙都西周。西周武公之共太子死,有五庶子,毋適立。司馬翦謂楚王曰:「不如以地資公子咎,為請太子。」左成曰:「不可。周不聴,是公之知困而交疏於周也。不如請周君孰欲立,以微告翦,翦請令楚資之以地。」果立公子咎為太子。八年,秦攻宜陽,楚救之。而楚以周為秦故,将伐之。蘇代為周説楚王曰:「何以周為秦之禍也?言周之為秦甚於楚者,欲令周入秦也,故謂『周秦』也。

書き下し

桓公卒し、子威公代はりて立つ。威公卒し、子恵公代はりて立つ。乃ち其の少子を鞏に封じて以て王を奉ぜしめ、東周の恵公と号す。威烈王の二十三年、九鼎震ふ。韓・魏・趙に命じて諸侯と為す。二十四年、崩じ、子安王驕立つ。是の歳盗楚の声王を殺す。安王立つこと二十六年にして崩じ、子烈王喜立つ。烈王の二年、周の太史儋秦の献公に見えて曰く、「始め周と秦国と合して別れ、別れて五百載にして復た合し、合して十七歳にして霸王の者出でん」と。十年、烈王崩じ、弟扁立つ。是を顕王と為す。顕王の五年、秦の献公を賀す。献公伯と称す。九年、文武の胙を秦の孝公に致す。二十五年、秦諸侯を周に会す。二十六年、周伯を秦の孝公に致す。三十三年、秦の恵王を賀す。三十五年、文武の胙を秦の恵王に致す。四十四年、秦の恵王王と称す。其の後諸侯皆王と為る。四十八年、顕王崩じ、子慎靚王定立つ。慎靚王立つこと六年にして崩じ、子赧王延立つ。王赧の時東西周分かれて治む。王赧都を西周に徙す。西周の武公の共太子死し、五庶子有り、適の立つる毋し。司馬翦楚王に謂ひて曰く、「地を以て公子咎に資し、為に太子と為さんことを請ふに如かず」と。左成曰く、「不可なり。周聴かずんば、是れ公の知困しみて交周に疏ならん。周君に孰れを立てんと欲するかを請ひ、以て微かに翦に告ぐるに如かず。翦請ひて楚をして之に資するに地を以てせしめん」と。果たして公子咎を立てて太子と為す。八年、秦宜陽を攻め、楚之を救ふ。而して楚周の秦の為にするを以ての故に、将に之を伐たんとす。蘇代周の為に楚王に説きて曰く、「何を以てか周を以て秦の禍と為す。周の秦の為にすること楚よりも甚だしと言ふ者は、周をして秦に入らしめんと欲するなり。故に周秦と謂ふなり。

現代語訳

桓公が亡くなり、子の威公が代わって立った。威公が亡くなり、子の恵公が代わって立った。恵公はその末子を鞏に封じて王に仕えさせ、東周の恵公と号させた。威烈王の二十三年、九鼎が震えた。韓・魏・趙に命じて諸侯とした。二十四年、威烈王が崩じ、子の安王驕が立った。この年、盗賊が楚の声王を殺した。安王は即位して二十六年で崩じ、子の烈王喜が立った。烈王の二年、周の太史の儋が秦の献公に会って言った。「はじめ周と秦は一つであったが分かれた。分かれて五百年たつとまた一つになり、一つになって十七年たつと覇王となる者が現れるであろう。」十年、烈王が崩じ、弟の扁が立った。これが顕王である。顕王の五年、秦の献公に祝賀を贈った。献公は伯(覇者)を称した。九年、文王・武王を祭った供物の肉を秦の孝公に贈った。二十五年、秦は諸侯を周に集めた。二十六年、周は秦の孝公に伯の称号を与えた。三十三年、秦の恵王に祝賀を贈った。三十五年、文王・武王を祭った供物の肉を秦の恵王に贈った。四十四年、秦の恵王は王を称した。その後、諸侯はみな王を名乗るようになった。四十八年、顕王が崩じ、子の慎靚王定が立った。慎靚王は即位して六年で崩じ、子の赧王延が立った。王赧の時、周は東周と西周に分かれて治められた。王赧は都を西周に移した。西周の武公の太子の共太子が亡くなったが、庶子が五人いて、嫡子として立てるべき者がいなかった。司馬翦は楚王に言った。「公子咎に土地を与えて後押しし、彼を太子にするよう周に求めるのがよい。」左成は言った。「なりませぬ。もし周が聞き入れなければ、あなた(司馬翦)の知恵は行き詰まり、周との交わりも疎遠になる。それよりも周君に誰を立てたいかを尋ね、それをひそかに翦に知らせるのがよい。そうすれば翦は、楚からその者に土地を与えるよう願い出ることができる。」果たして(周は)公子咎を太子に立てた。八年、秦が宜陽を攻め、楚がこれを救った。そして楚は周が秦に味方していると考えて、周を討とうとした。蘇代は周のために楚王に説いて言った。「どうして周を秦の災いの元と見るのか。周が楚よりも秦に尽くしていると言う者は、周を秦の側に追いやろうとしているのである。だから『周秦』などと呼ぶのである。

解説

戦国時代に入り、周王室がいよいよ名ばかりの存在になっていく段です。九鼎が震え、周は晋を分割した韓・魏・趙を正式な諸侯と認めました。臣下が主君の国を奪ったことを、天子が追認したのです。司馬光の『資治通鑑』がこの年から書き起こされるのも、秩序の崩壊を象徴する出来事と見たからでした。続いて周は台頭する秦に祝賀や供物の肉を贈り、覇者の称号まで与えます。やがて秦の恵王が王を名乗ると、諸侯もみな王を称し、天子の称号の重みは失われました。周はさらに東周と西周に分裂し、後継者問題でさえ楚の顔色をうかがって決める有様です。左成の助言は、相手の意向を先に聞き出してから支援を申し出れば、断られて面目を失うことがない、という交渉の知恵として読めます。名目上の地位だけが残った組織は、周囲の大国の思惑の間で、言葉の力によって生き延びるしかなくなるのです。

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