史記 / 周本紀
口之宣言也,善敗於是乎興。行善而備敗,所以產財用衣食者也。夫民慮之於心而宣之於口,成而行之。若壅其口,其與能幾何?」王不聽。於是國莫敢出言,三年,乃相與畔,襲厲王。厲王出奔於彘。厲王太子靜匿召公之家,國人聞之,乃圍之。召公曰:「昔吾驟諫王,王不從,以及此難也。今殺王太子,王其以我為讎而懟怒乎?夫事君者,險而不讎懟,怨而不怒,況事王乎!」乃以其子代王太子,太子竟得脫。召公、周公二相行政,號曰「共和」。共和十四年,厲王死于彘。太子靜長於召公家,二相乃共立之為王,是為宣王。宣王即位,二相輔之,修政,法文、武、成、康之遺風,諸侯復宗周。十二年,魯武公來朝。宣王不修籍於千畝,虢文公諫曰不可,王弗聽。三十九年,戰于千畝,王師敗績于姜氏之戎。宣王既亡南國之師,乃料民於太原。仲山甫諫曰:「民不可料也。」宣王不聽,卒料民。四十六年,宣王崩,子幽王宮𣵀立。幽王二年,西周三川皆震。伯陽甫曰:「周將亡矣。夫天地之氣,不失其序;若過其序,民亂之也。陽伏而不能出,陰迫而不能蒸,於是有地震。今三川實震,是陽失其所而填陰也。陽失而在陰,原必塞;原塞,國必亡。夫水土演而民用也。
新字:口之宣言也,善敗於是乎興。行善而備敗,所以産財用衣食者也。夫民慮之於心而宣之於口,成而行之。若壅其口,其与能幾何?」王不聴。於是国莫敢出言,三年,乃相与畔,襲厲王。厲王出奔於彘。厲王太子静匿召公之家,国人聞之,乃囲之。召公曰:「昔吾驟諫王,王不従,以及此難也。今殺王太子,王其以我為讎而懟怒乎?夫事君者,険而不讎懟,怨而不怒,況事王乎!」乃以其子代王太子,太子竟得脱。召公、周公二相行政,号曰「共和」。共和十四年,厲王死于彘。太子静長於召公家,二相乃共立之為王,是為宣王。宣王即位,二相輔之,修政,法文、武、成、康之遺風,諸侯復宗周。十二年,魯武公来朝。宣王不修籍於千畝,虢文公諫曰不可,王弗聴。三十九年,戦于千畝,王師敗績于姜氏之戎。宣王既亡南国之師,乃料民於太原。仲山甫諫曰:「民不可料也。」宣王不聴,卒料民。四十六年,宣王崩,子幽王宮𣵀立。幽王二年,西周三川皆震。伯陽甫曰:「周将亡矣。夫天地之気,不失其序;若過其序,民乱之也。陽伏而不能出,陰迫而不能蒸,於是有地震。今三川実震,是陽失其所而填陰也。陽失而在陰,原必塞;原塞,国必亡。夫水土演而民用也。
書き下し
口の言を宣ぶるや、善敗是に於て興る。善を行ひて敗に備ふるは、財用衣食を産する所以の者なり。夫れ民之を心に慮りて之を口に宣べ、成して之を行ふ。若し其の口を壅がば、其の与すること能く幾何ぞ」と。王聴かず。是に於て国敢へて言を出す莫く、三年にして、乃ち相与に畔き、厲王を襲ふ。厲王出でて彘に奔る。厲王の太子静召公の家に匿る。国人之を聞き、乃ち之を囲む。召公曰く、「昔吾驟王を諫むれども、王従はず、以て此の難に及ぶ。今王の太子を殺さば、王其れ我を以て讎と為して懟怒せんか。夫れ君に事ふる者は、険にして讎懟せず、怨みて怒らず。況んや王に事ふるをや」と。乃ち其の子を以て王の太子に代ふ。太子竟に脱るるを得たり。召公・周公の二相政を行ひ、号して共和と曰ふ。共和十四年、厲王彘に死す。太子静召公の家に長じ、二相乃ち共に之を立てて王と為す。是を宣王と為す。宣王即位し、二相之を輔け、政を修め、文・武・成・康の遺風に法り、諸侯復た周を宗とす。十二年、魯の武公来朝す。宣王籍を千畝に修めず。虢の文公諫めて不可と曰ふも、王聴かず。三十九年、千畝に戦ひ、王の師姜氏の戎に敗績す。宣王既に南国の師を亡ひ、乃ち民を太原に料る。仲山甫諫めて曰く、「民は料る可からず」と。宣王聴かず、卒に民を料る。四十六年、宣王崩じ、子幽王宮𣵀立つ。幽王の二年、西周の三川皆震ふ。伯陽甫曰く、「周将に亡びんとす。夫れ天地の気は、其の序を失はず。若し其の序を過たば、民之を乱すなり。陽伏して出づる能はず、陰迫りて蒸す能はず、是に於て地震有り。今三川実に震ふ、是れ陽其の所を失ひて陰を填むるなり。陽失ひて陰に在れば、原必ず塞がる。原塞がれば、国必ず亡ぶ。夫れ水土演べて民用ふるなり。
現代語訳
民が口に出して言うことから、政治の善し悪しが明らかになる。善いことを行い、悪い結果に備えることこそ、財貨や衣食を生み出すもとである。民は心に考えて口に出し、考えがまとまれば行動に移す。もしその口をふさいだら、王に味方する者はどれほど残るだろうか。」王は聞き入れなかった。こうして国の人々は誰もものを言わなくなり、三年後、ついにみなで反乱を起こし、厲王を襲った。厲王は都を出て彘(てい)に逃げた。厲王の太子の静は召公の家にかくまわれた。国の人々はこれを聞いて、召公の家を取り囲んだ。召公は言った。「以前、私はたびたび王を諫めたが、王は従わず、このような災難に至った。今、王の太子を殺させてしまえば、王は私が恨みを抱いてそうしたと思って怒るのではないか。そもそも君主に仕える者は、危険な目にあっても恨んで仇としてはならず、怨むことがあっても怒ってはならない。まして王に仕える者はなおさらだ。」そこで自分の子を王の太子の身代わりとした。太子はついに逃れることができた。召公と周公の二人の宰相が政治を行い、これを共和と称した。共和十四年、厲王は彘で死んだ。太子の静は召公の家で成長し、二人の宰相はともに彼を王に立てた。これが宣王である。宣王が即位すると、二人の宰相がこれを補佐し、政治を修め、文王・武王・成王・康王の遺した風に倣ったので、諸侯は再び周を宗主と仰いだ。十二年、魯の武公が来朝した。宣王は千畝の籍田で王自ら耕す儀式を行わなかった。虢の文公が「なりませぬ」と諫めたが、王は聞き入れなかった。三十九年、千畝で戦い、王の軍は姜氏の戎に大敗した。宣王は南方の軍を失ったので、太原で民の人数を数えて兵を徴発しようとした。仲山甫は諫めて言った。「民を数えてはならない。」宣王は聞き入れず、ついに民を数えた。四十六年、宣王が崩じ、子の幽王宮湦が立った。幽王の二年、西周の三つの川(涇水・渭水・洛水)の流域で大地震が起こった。伯陽甫は言った。「周は滅びようとしている。天地の気は、その順序を失わないものだ。もしその順序が狂うなら、それは民が乱しているのである。陽の気が伏して出ることができず、陰の気が迫って昇ることができないと、地震が起こる。今、三つの川の流域がまさに揺れたのは、陽の気がその居場所を失って陰の気に押さえ込まれたのである。陽が居場所を失って陰の下にあれば、川の源は必ずふさがる。源がふさがれば、国は必ず滅びる。そもそも水と土が潤いを行きわたらせてこそ、民はそれを用いることができる。
解説
関連する章句
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史記 周本紀夫れ栄公は利を専らにするを好みて大難を知らず。夫れ利は、百物の生ずる所なり、天地の載する所なり。而るに之を専らにする有らば、其の害多からん。天地百物皆将に焉を取らんとす、何ぞ専らにす可けんや。怒る所甚だ多くして、大難に備へず。是を以て王に教ふ、王其れ能く久しからんや。夫れ人に王たる者は、将に利を導きて之を上下に布かんとする者なり。神人百物をして極を得ざる無からしむるも、猶ほ日に怵惕して怨みの来たるを懼る。故に頌に曰く『思文なる后稷、克く彼の天に配す。我が蒸民を立つるは、爾の極に匪ざるは莫し』と。大雅に曰く『陳錫して周を載す』と。是れ利を布きて難を懼るるにあらずや、故に能く周を載せて以て今に至る。今王専利を学ぶ、其れ可ならんや。匹夫利を専らにすら、猶ほ之を盗と謂ふ。王にして之を行はば、其の帰する鮮からん。栄公若し用ゐられなば、周必ず敗れん」と。厲王聴かず、卒に栄公を以て卿士と為し、事を用ゐしむ。王暴虐侈傲を行ひ、国人王を謗る。召公諫めて曰く、「民命に堪へず」と。王怒り、衛巫を得、謗る者を監せしめ、告ぐるを以て則ち之を殺す。其の謗り鮮し、諸侯朝せず。三十四年、王益厳しく、国人敢へて言ふ莫く、道路目を以てす。厲王喜び、召公に告げて曰く、「吾能く謗りを弭めたり、乃ち敢へて言はず」と。召公曰く、「是れ之を鄣ぐなり。民の口を防ぐは、水を防ぐよりも甚だし。水壅がりて潰ゆれば、人を傷つくること必ず多し。民も亦之の如し。是の故に水を為むる者は之を決して導かしめ、民を為むる者は之を宣べて言はしむ。故に天子政を聴くに、公卿より列士に至るまで詩を献ぜしめ、瞽は曲を献じ、史は書を献じ、師は箴し、瞍は賦し、矇は誦し、百工は諫め、庶人は語を伝へ、近臣は規を尽くし、親戚は補察し、瞽史は教誨し、耆艾は之を修め、而る後に王焉を斟酌す。是を以て事行はれて悖らず。民の口有るや、猶ほ土の山川有るがごときなり、財用是に於て出づ。猶ほ其の原隰衍沃有るがごときなり、衣食是に於て生ず。
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史記 周本紀成王将に崩ぜんとし、太子釗の任へざるを懼れ、乃ち召公・畢公に命じて諸侯を率ゐて以て太子を相けて之を立てしむ。成王既に崩じ、二公諸侯を率ゐ、太子釗を以て先王の廟に見えしめ、申ねて告ぐるに文王・武王の王業を為すの易からざる所以を以てし、務めは節倹に在り、多欲毋く、篤信を以て之に臨めと、顧命を作る。太子釗遂に立つ。是を康王と為す。康王即位し、遍く諸侯に告げ、宣告するに文武の業を以て之を申ね、康誥を作る。故に成康の際、天下安寧にして、刑錯きて四十余年用ゐず。康王命じて策を作らしめ、畢公をして居里を分かち、成周の郊とせしめ、畢命を作る。康王卒し、子昭王瑕立つ。昭王の時、王道微缺す。昭王南に巡狩して返らず、江上に卒す。其の卒を赴告せず、之を諱むなり。昭王の子満を立つ。是を穆王と為す。穆王即位し、春秋已に五十なり。王道衰微す。穆王文武の道の缺くるを閔み、乃ち伯臩に命じて申ねて太僕国の政を誡めしめ、臩命を作る。復た寧し。穆王将に犬戎を征せんとす。祭公謀父諫めて曰く、「不可なり。先王は徳を燿かして兵を観さず。夫れ兵は戢めて時に動く、動けば則ち威あり。観せば則ち玩ばれ、玩ばるれば則ち震ふこと無し。是の故に周文公の頌に曰く、『載ち干戈を戢め、載ち弓矢を櫜にす。我懿徳を求め、時の夏に肆ぶ。允に王之を保たん』と。先王の民に於けるや、其の徳を茂正して其の性を厚くし、其の財求を阜かにして其の器用を利し、利害の郷を明らかにし、文を以て之を修め、之をして利を務めて害を辟け、徳を懐ひて威を畏れしむ。故に能く世を保ちて以て滋大なり。昔我が先王世后稷として以て虞・夏に服事す。夏の衰ふるに及びてや、稷を棄てて務めず、我が先王不窋用て其の官を失ひて、自ら戎狄の間に竄る。
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史記 周本紀是に於て諸侯乃ち申侯に即きて共に故の幽王の太子宜臼を立つ。是を平王と為し、以て周の祀を奉ず。平王立ちて、東のかた雒邑に遷り、戎寇を辟く。平王の時、周室衰微し、諸侯彊は弱を并せ、斉・楚・秦・晋始めて大きく、政は方伯に由る。四十九年、魯の隠公即位す。五十一年、平王崩ず。太子洩父早く死し、其の子林を立つ。是を桓王と為す。桓王は、平王の孫なり。桓王の三年、鄭の荘公朝す。桓王礼せず。五年、鄭怨み、魯と許田を易ふ。許田は、天子の太山に事を用ゐるの田なり。八年、魯隠公を殺し、桓公を立つ。十三年、鄭を伐つ。鄭桓王を射傷し、桓王去りて帰る。二十三年、桓王崩じ、子荘王佗立つ。荘王の四年、周公黒肩荘王を殺して王子克を立てんと欲す。辛伯王に告げ、王周公を殺す。王子克燕に奔る。十五年、荘王崩じ、子釐王胡斉立つ。釐王の三年、斉の桓公始めて霸たり。五年、釐王崩じ、子恵王閬立つ。恵王の二年。初め、荘王姚を嬖姫とし、子穨を生む。穨寵有り。恵王即位するに及び、其の大臣の園を奪ひて以て囿と為す。故に大夫辺伯等五人乱を作し、燕・衛の師を召して、恵王を伐たんと謀る。恵王温に犇り、已にして鄭の櫟に居る。釐王の弟穨を立てて王と為す。楽して徧舞に及ぶ。鄭・虢の君怒る。四年、鄭と虢の君王穨を伐ちて殺し、復た恵王を入る。恵王の十年、斉の桓公に賜ひて伯と為す。二十五年、恵王崩じ、子襄王鄭立つ。襄王の母蚤く死し、後母を恵后と曰ふ。恵后叔帯を生み、恵王に寵有り、襄王之を畏る。三年、叔帯戎・翟と謀りて襄王を伐たんとす。襄王叔帯を誅せんと欲し、叔帯斉に奔る。斉の桓公管仲をして戎を周に平らげしめ、隰朋をして戎を晋に平らげしむ。王上卿の礼を以て管仲を礼す。
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