士道要論 / 士節・踏みこたえる者の少なさと正しい鑑
城を枕にしてきつと死ぬるものは作左衞門の外はあらじとて、本多重次に命ぜられたり、かく節を守て、しかと死ぬるものは、むかしにてもかたしとせり、されど、德川家には節義の士多し、東照宮、豐臣關白と御和議とゝのひて初てまみへ玉ひし時、關白、德川家の寶物を問せられしかば、何にもあらざるとてこたへ玉ひけれど、しひて問せられしかば、其ときの御こたへに、某がために水火の中にとびいりて、命を露麤ほどもおしまぬ者五百人あまりもや候はん、これぞ某が寶なりけるとの玉ひしをみれば、しかと死ぬるもの少からず、德川家の天下を得給ひしもむべなるかな、それより前つがたにては、北條が亡し時ほど死節の士多き事はなし、鎌倉にて高時に從ひて、自殺せしもの數千人にあまり、番場の辻堂にて仲時にしたがひて腹切ものも數百人にいたれり、其外諸國にて死せし者かずをしらず、そのころ士氣のつよきをしるべし、されど、北條がひがごとしたるに從ひて、一人も非をいさめ逆をとどむるものなく、正統の天子にむかひ奉りて、弓をひき刀をふるひしものどもなれば、武士の鑑とはなしがたし、わが大やまとの御國にて、上下二千餘年のあいだ武士の鑑とすべき人は、楠中將にぞとどめける、楠公正統の天子にたのまれ奉りて義兵をおこし、一族郎黨までも、こと〱く義により節を守り、
新字:城を枕にしてきつと死ぬるものは作左衛門の外はあらじとて、本多重次に命ぜられたり、かく節を守て、しかと死ぬるものは、むかしにてもかたしとせり、されど、徳川家には節義の士多し、東照宮、豊臣関白と御和議とゝのひて初てまみへ玉ひし時、関白、徳川家の宝物を問せられしかば、何にもあらざるとてこたへ玉ひけれど、しひて問せられしかば、其ときの御こたへに、某がために水火の中にとびいりて、命を露麤ほどもおしまぬ者五百人あまりもや候はん、これぞ某が宝なりけるとの玉ひしをみれば、しかと死ぬるもの少からず、徳川家の天下を得給ひしもむべなるかな、それより前つがたにては、北条が亡し時ほど死節の士多き事はなし、鎌倉にて高時に従ひて、自殺せしもの数千人にあまり、番場の辻堂にて仲時にしたがひて腹切ものも数百人にいたれり、其外諸国にて死せし者かずをしらず、そのころ士気のつよきをしるべし、されど、北条がひがごとしたるに従ひて、一人も非をいさめ逆をとどむるものなく、正統の天子にむかひ奉りて、弓をひき刀をふるひしものどもなれば、武士の鑑とはなしがたし、わが大やまとの御国にて、上下二千余年のあいだ武士の鑑とすべき人は、楠中将にぞとどめける、楠公正統の天子にたのまれ奉りて義兵をおこし、一族郎党までも、こと〱く義により節を守り、
書き下し
城を枕にしてきつと死ぬるものは作左衞門の外はあらじとて、本多重次に命ぜられたり、かく節を守て、しかと死ぬるものは、むかしにてもかたしとせり、されど、德川家には節義の士多し、東照宮、豐臣關白と御和議とゝのひて初てまみへ玉ひし時、關白、德川家の寶物を問せられしかば、何にもあらざるとてこたへ玉ひけれど、しひて問せられしかば、其ときの御こたへに、某がために水火の中にとびいりて、命を露麤ほどもおしまぬ者五百人あまりもや候はん、これぞ某が寶なりけるとの玉ひしをみれば、しかと死ぬるもの少からず、德川家の天下を得給ひしもむべなるかな、それより前つがたにては、北條が亡し時ほど死節の士多き事はなし、鎌倉にて高時に從ひて、自殺せしもの數千人にあまり、番場の辻堂にて仲時にしたがひて腹切ものも數百人にいたれり、其外諸國にて死せし者かずをしらず、そのころ士氣のつよきをしるべし、されど、北條がひがごとしたるに從ひて、一人も非をいさめ逆をとどむるものなく、正統の天子にむかひ奉りて、弓をひき刀をふるひしものどもなれば、武士の鑑とはなしがたし、わが大やまとの御國にて、上下二千餘年のあいだ武士の鑑とすべき人は、楠中將にぞとどめける、楠公正統の天子にたのまれ奉りて義兵をおこし、一族郎黨までも、こと〱く義により節を守り、
現代語訳
城を枕にして必ず死ぬ者は作左衛門(本多重次)のほかにはいないとして、本多重次が命じられたのです。このように節を守ってしっかり死ねる者は、昔でも得がたいとされました。それでも徳川家には節義の士が多くいました。東照宮(徳川家康)が豊臣関白(秀吉)と和議が整って初めて対面されたとき、関白が徳川家の宝物を尋ねられたので、何もないと答えられましたが、しいて尋ねられると、そのときのお答えに、「私のために水火の中に飛び込んで、命を塵ほども惜しまない者が五百人あまりおりましょう。これこそ私の宝です」とおっしゃったということですから、しっかり死ねる者が少なくなかったことが分かります。徳川家が天下を得られたのももっともなことです。それより前の時代では、北条が滅んだときほど死節の士が多かったことはありません。鎌倉で高時に従って自殺した者は数千人にのぼり、番場の辻堂で仲時に従って腹を切った者も数百人に至り、そのほか諸国で死んだ者は数知れません。そのころ士気が強かったことが分かります。けれども、北条の誤りに従って、一人も非をいさめ逆を止める者がおらず、正統の天子に向かって弓を引き刀を振るった者たちですから、武士の鑑とはしがたいのです。わが大和の国で、上下二千年余りの間、武士の鑑とすべき人は、楠中将(楠木正成)に尽きます。楠公は正統の天子に頼られて義兵を起こし、一族郎党までもことごとく義によって節を守り、
解説
この章句が説くこと
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『政談』諸役人に器量を選ふ事それとも其の人全く上たる人の心に毫髪も違はすんば善き事にはあらされとも、上の望みには叶ふへけれとも、凡そ人たる者生れつき其の器量才智人々各別なるものにて、同一なる人は天地の間に之なきことなるゆゑ、人心の同しからさること面の如しと云ふ古語あり、左れは其の上思召に毫髪も違はす能く上の御心を知りて、上の御身を分けたる如くなる人は皆我か器量才智をは出さす、無理におしまけて上へ合はせて仕込たる事にて、阿諛諂侫のともがらなり、斯の如き人は身を踏込ます、忠義の心全くなし、大悪人也と知るへし、
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史記 斉悼恵王世家路中大夫既に之を許し、城下に至り、斉王を望見して、曰く、「漢已に兵百万を発し、太尉周亜夫をして呉楚を撃破せしめ、方に兵を引きて斉を救はんとす、斉必ず堅守して下ること無かれ」と。三国の将路中大夫を誅す。斉初め囲まれて急なり、陰かに三国と通謀し、約未だ定まらず、会々路中大夫の漢より来たるを聞き、喜び、其の大臣に及びて乃ち復た王に三国に下ること毋からんことを勧む。居ること何くも無く、漢の将欒布・平陽侯等の兵斉に至り、三国の兵を撃破し、斉の囲みを解く。已にして復た斉の初め三国と謀有るを聞き、将に兵を移して斉を伐たんとす。斉の孝王懼れ、乃ち薬を飲みて自殺す。景帝之を聞き、以為へらく斉は首め善なり、迫劫を以て謀有り、其の罪に非ざるなりと、乃ち孝王の太子寿を立てて斉王と為す、是れを懿王と為す、斉の後を続がしむ。而して膠西・膠東・済南・菑川の王咸誅滅せられ、地漢に入る。済北王を徙して菑川に王とす。斉の懿王立ちて二十二年にして卒し、子次景立つ、是れを厲王と為す。斉の厲王、其の母を紀太后と曰ふ。太后其の弟紀氏の女を取りて厲王の后と為す。王紀氏の女を愛せず。太后其の家の重寵ならんことを欲し、其の長女紀翁主をして王宮に入り、其の後宮を正さしめ、王に近づくを得しむる毋からしめ、紀氏の女を愛せしめんと欲す。王因りて其の姊翁主と姦す。斉に宦者徐甲有り、入りて漢の皇太后に事ふ。皇太后に愛女有り修成君と曰ふ、修成君は劉氏に非ず、太后之を憐れむ。修成君に女有り名は娥、太后之を諸侯に嫁せんと欲す、宦者甲乃ち斉に使ひせんことを請ひ、必ず王をして上書して娥を請はしめんとす。皇太后喜び、甲をして斉に之かしむ。是の時斉人主父偃甲の斉に使ひして以て后を取るの事を知り、亦た因りて甲に謂ふ、「即し事成らば、幸はくは偃の女後宮に充たるを得んことを願ふと言へ」と。甲既に斉に至り、風するに此の事を以てす。紀太后大いに怒りて曰く、「王に后有り、後宮具備す。
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史記 刺客列伝居ること頃之、豫譲又身に漆して厲と為り、炭を呑みて唖と為り、形状をして知るべからざらしめ、市に行乞す。其の妻識らざるなり。行きて其の友に見ゆ。其の友之を識りて曰く、「汝は豫譲に非ずや」と。曰く、「我是なり」と。其の友為に泣きて曰く、「子の才を以て、質を委ねて臣として襄子に事へば、襄子必ず子を近幸せん。子を近幸せば、乃ち欲する所を為すこと、顧って易からずや。何ぞ乃ち身を残し形を苦しめ、以て襄子に報ぜんことを求めんと欲する。亦難からずや」と。豫譲曰く、「既已に質を委ねて臣として人に事へ、而して之を殺さんことを求むるは、是れ二心を懐きて以て其の君に事ふるなり。且つ吾が為す所の者は極めて難きのみ。然れども此を為す所以の者は、将に以て天下後世の人臣と為りて二心を懐きて以て其の君に事ふる者を愧ぢしめんとするなり」と。既に去り、頃之、襄子当に出づべし。豫譲、当に過ぐべき所の橋の下に伏す。襄子橋に至り、馬驚く。襄子曰く、「此れ必ず是れ豫譲ならん」と。人をして之を問はしむれば、果して豫譲なり。是に於て襄子乃ち豫譲を数めて曰く、「子は嘗て范・中行氏に事へずや。智伯尽く之を滅ぼす。而るに子は為に讎を報ぜず、而して反って質を委ねて智伯に臣たり。智伯も亦已に死せり。而るに子独り何を以て之が為に讎を報ずることの深きや」と。豫譲曰く、「臣、范・中行氏に事ふ。范・中行氏は皆衆人もて我を遇す。我故に衆人もて之に報ず。智伯に至りては、国士もて我を遇す。我故に国士もて之に報ず」と。襄子喟然として嘆息して泣きて曰く、「嗟乎豫子。子の智伯の為にする、名既に成れり。而して寡人の子を赦す、亦已に足れり。子其れ自ら計を為せ。寡人復た子を釈さず」と。兵をして之を囲ましむ。豫譲曰く、「臣聞く、明主は人の美を掩はず、而して忠臣は名に死するの義有りと。前に君已に寛く臣を赦し、天下君の賢を称せざる莫し。今日の事、臣固より誅に伏せん。然れども願はくは君の衣を請ひて之を撃ち、以て讎を報ずるの意を致さば、則ち死すと雖も恨みず。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。是に於て襄子大いに之を義とし、乃ち使をして衣を持ちて豫譲に与へしむ。豫譲剣を抜きて三たび躍りて之を撃ち、
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人生を、一行の式にしてみた。
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