士道要論 / 原士・武を軽んじる驕りが招く衰えへの戒め
といひ、また公侯腹心といへり、それ武士を干城といひ、腹心とさへいへるに、中世にはいやしみて侍といひて、長袖の人の僕隸のごとくなれり、しばらくは從ひ居たれども、事變の會に及びて、武人遂に大君のすがたとなりて、公家の人々は權柄を失ひたまひぬ、これもと公家の士の名義を失ひて、武事をいやしみしがゆへなり、されど公家のことは、既に適にし事なれば、とかふ云べからず、余は承平の久しき武士たるものも、むかしの公家のすがたになりゆかんことを恐れて、かくはいふなり、おほよそ武をうとみて賤むにいたるは、よくも其功德をわきまへざるがゆへなり、武の貴く功德あることは、天祖の寶劍をつたへ玉ひ、左傳に武の七德をのぶるにてもしるべし、されば神聖天下を治めたまふに、文事武備兼用ること、車の兩輪、鳥の兩翼のごとし、世儒いたづらに湯武の征伐をもて、堯舜の揖讓に及ぼすごとし、武を第二義と思ふものもあれど、堯舜より先つかた、黃帝すでに武をもつて天下を定て、そのゝち禮樂文治の沙汰には及べるなり、御國もまたしかり、仁德履仲の列聖、衣裳をたれて天下をしろしめされたれど、神武崇神應神などのすべらぎ、そのまへにゐまして、干戈を用ひたまひ、經津主命武甕命等、その事ありてこそ、後の太平をひらきたるなれ、又開闢のはじめといへど、猛獸鷲鳥橫行する時に、人は爪牙の利もなくして、其中に立まじらはゞ、
新字:といひ、また公侯腹心といへり、それ武士を干城といひ、腹心とさへいへるに、中世にはいやしみて侍といひて、長袖の人の僕隸のごとくなれり、しばらくは従ひ居たれども、事変の会に及びて、武人遂に大君のすがたとなりて、公家の人々は権柄を失ひたまひぬ、これもと公家の士の名義を失ひて、武事をいやしみしがゆへなり、されど公家のことは、既に適にし事なれば、とかふ云べからず、余は承平の久しき武士たるものも、むかしの公家のすがたになりゆかんことを恐れて、かくはいふなり、おほよそ武をうとみて賤むにいたるは、よくも其功徳をわきまへざるがゆへなり、武の貴く功徳あることは、天祖の宝剣をつたへ玉ひ、左伝に武の七徳をのぶるにてもしるべし、されば神聖天下を治めたまふに、文事武備兼用ること、車の両輪、鳥の両翼のごとし、世儒いたづらに湯武の征伐をもて、堯舜の揖譲に及ぼすごとし、武を第二義と思ふものもあれど、堯舜より先つかた、黄帝すでに武をもつて天下を定て、そのゝち礼楽文治の沙汰には及べるなり、御国もまたしかり、仁徳履仲の列聖、衣裳をたれて天下をしろしめされたれど、神武崇神応神などのすべらぎ、そのまへにゐまして、干戈を用ひたまひ、経津主命武甕命等、その事ありてこそ、後の太平をひらきたるなれ、又開闢のはじめといへど、猛獣鷲鳥横行する時に、人は爪牙の利もなくして、其中に立まじらはゞ、
書き下し
といひ、また公侯腹心といへり、それ武士を干城といひ、腹心とさへいへるに、中世にはいやしみて侍といひて、長袖の人の僕隸のごとくなれり、しばらくは從ひ居たれども、事變の會に及びて、武人遂に大君のすがたとなりて、公家の人々は權柄を失ひたまひぬ、これもと公家の士の名義を失ひて、武事をいやしみしがゆへなり、されど公家のことは、既に適にし事なれば、とかふ云べからず、余は承平の久しき武士たるものも、むかしの公家のすがたになりゆかんことを恐れて、かくはいふなり、おほよそ武をうとみて賤むにいたるは、よくも其功德をわきまへざるがゆへなり、武の貴く功德あることは、天祖の寶劍をつたへ玉ひ、左傳に武の七德をのぶるにてもしるべし、されば神聖天下を治めたまふに、文事武備兼用ること、車の兩輪、鳥の兩翼のごとし、世儒いたづらに湯武の征伐をもて、堯舜の揖讓に及ぼすごとし、武を第二義と思ふものもあれど、堯舜より先つかた、黃帝すでに武をもつて天下を定て、そのゝち禮樂文治の沙汰には及べるなり、御國もまたしかり、仁德履仲の列聖、衣裳をたれて天下をしろしめされたれど、神武崇神應神などのすべらぎ、そのまへにゐまして、干戈を用ひたまひ、經津主命武甕命等、その事ありてこそ、後の太平をひらきたるなれ、又開闢のはじめといへど、猛獸鷲鳥橫行する時に、人は爪牙の利もなくして、其中に立まじらはゞ、
現代語訳
とあり、また「公侯の腹心」ともあります。武士を干城(盾と城)といい、腹心とまでいっているのに、中世には軽んじて「侍」と呼び、長袖(公家)の人の召使いのようになりました。しばらくは従っていましたが、事変の時にいたって、武人がついに大君(天下の主)の姿となり、公家の人々は権力を失われました。これはもともと公家が士という名の意義を失って、武事を軽んじたためです。しかし公家のことはすでに過ぎたことですから、とやかく言うべきではありません。私は、泰平の久しい世の武士たる者も、昔の公家のようになってゆくことを恐れて、こう言うのです。おおよそ武を疎んじて賤しむにいたるのは、その功徳をよくわきまえないからです。武が貴く功徳のあることは、天祖(天照大神)が宝剣を伝えられたことや、『左伝』に武の七徳を述べていることからも分かります。ですから、神聖な方々が天下を治められるとき、文事と武備を兼ね用いることは、車の両輪、鳥の両翼のようでした。世の儒者はむやみに湯王・武王の征伐を堯舜の禅譲に及ばないものとして、武を第二義と思う者もいますが、堯舜より前に、黄帝がすでに武によって天下を定め、その後に礼楽・文治に及んだのです。わが国もまた同じです。仁徳・履中などの歴代の天皇は、衣裳をたれて(無為のうちに)天下を治められましたが、神武・崇神・応神などの天皇がその前におられて、干戈を用いられ、経津主命・武甕槌命らがその働きをされたからこそ、後の太平を開いたのです。また開闢のはじめといっても、猛獣や猛禽がのさばる時、人は爪や牙の鋭さもなく、その中に立ち混じれば、
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』存韓第二凶器なり」と。審らかに用ゐざる可からざる也。
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老子・第64章其の安きは持し易く、其の未だ兆さざるは謀り易く、其の脆きは泮け易く、其の微なるは散じ易し。之を未だ有らざるに為し、之を未だ乱れざるに治む。合抱の木も毫末より生じ、九層の台も累土より起こり、千里の行も足下より始まる。為す者は之を敗り、執る者は之を失う。是を以て聖人は無為なる故に敗るること無く、無執なる故に失うこと無し。民の事に従うや、常に幾ど成らんとして之を敗る。終わりを慎むこと始めの如くなれば、則ち事を敗ること無し。是を以て聖人は欲せざるを欲し、得難きの貨を貴ばず。学ばざるを学び、衆人の過ぐる所に復る。以て万物の自然を輔けて、敢えて為さず。
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『韓非子』亡徵第十五亡徴とは、必ず亡ぶと日うに非ず、其の亡ぶ可きを言うなり。…木の折るるや必ず蠹を通じ、牆の壊るるや必ず隙を通ず。…然れども木蠹すと雖も、疾風無ければ折れず、牆隙すと雖も、大雨無ければ壊れず。
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『韓非子』存韓第二秦の韓有るは、人の腹心の病有るが若きなり。虚しく処れば則ち㤥然たり、湿地に居るが若く、著きて去らず、以て極めて走れば、則ち発す。
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論語・季氏篇季氏、将に顓臾を伐たんとす。冉有・季路、孔子に見えて曰く、「季氏、将に顓臾に事有らんとす。」孔子曰く、「求、乃ち爾是れ過てるに無からんや。夫れ顓臾は、昔者先王以て東蒙の主と為し、且つ邦域の中に在り。是れ社稷の臣なり。何を以て伐つことを為さん。」冉有曰く、「夫子之を欲す。吾二臣なる者は、皆欲せざるなり。」孔子曰く、「求、周任言えること有り、曰く、『力を陳べて列に就き、能わざれば止む』と。危うくして持せず、顛れて扶けずんば、則ち将た焉んぞ彼の相を用いん。且つ爾の言過てり。虎兕柙より出で、亀玉櫝中に毀るるは、是れ誰の過ちぞや。」冉有曰く、「今夫の顓臾は、固くして費に近し。今取らずんば、後世必ず子孫の憂いと為らん。」孔子曰く、「求、君子は夫の之を欲すと曰うを舍きて、必ず之が辞を為すを疾む。丘や、聞く、国を有ち家を有つ者は、寡なきを患えずして均しからざるを患え、貧しきを患えずして安からざるを患う、と。蓋し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡なきこと無く、安ければ傾くこと無し。夫れ是くの如し。故に遠人服せざれば、則ち文徳を修めて以て之を来す。既に之を来せば、則ち之を安んず。今由と求とは、夫子を相けて、遠人服せずして来すこと能わず、邦分崩離析して守ること能わず、而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。吾恐る、季孫の憂いは、顓臾に在らずして、蕭牆の内に在らんことを。」
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『韓非子』亡徵第十五大利を見て趨かず、禍端を聞きて備えず、爭守の事に淺薄にして、務めて仁義を以て自ら飾る者は、亡ぶ可きなり。

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