士道要論 / 原士・物部と周の軍役にみる武士の源流
世々物部の職を繼しめ給ひしこと、舊事記日本紀などにみえたり、さて物部はものゝべとよみ、又萬葉集にはものゝふとよめり、物とは兵をいへり、むかしの書に兵卒を物共といひ、武具を物の具といひ、後の世にも、兵士のつかさを物主物頭などいふをもて知るべし、されば物部は卽武士なり、(後の世の歌物語などに武士とかきて卽ものゝふとよめり)もろこしの士を事とよめるに略相似たり、武士の名、源平氏にはじまれるにあらざることあきらけし、さてまたもろこしも、周のころまでは、天子諸侯大夫も武をもてむねとするゆへ、其富をいふに、專軍役をもて、萬乘千乘百乘とゝなへて、一國の內、上下貴賤軍役の內にあらざるものなし、さればその一乘には、甲士三人步卒七十二人と定て、步卒は農民にて、その將は即士なり、又公卿大夫その將となれば、公卿大夫も士と功をともにせり、ゆへに公卿の子もいまだ官につかざる內はその士なり、禮に士冠禮のみありて、公卿大夫の冠禮なきをもてしるべし、されば大御國のいにしへも、西土のいにしへも、公卿大夫に武家の名なけれども、みな武家といふべし、士の皆武士なることは、もとよりなり、詩の國風周南に、赳々武夫。公侯干城。
新字:世々物部の職を継しめ給ひしこと、旧事記日本紀などにみえたり、さて物部はものゝべとよみ、又万葉集にはものゝふとよめり、物とは兵をいへり、むかしの書に兵卒を物共といひ、武具を物の具といひ、後の世にも、兵士のつかさを物主物頭などいふをもて知るべし、されば物部は即武士なり、(後の世の歌物語などに武士とかきて即ものゝふとよめり)もろこしの士を事とよめるに略相似たり、武士の名、源平氏にはじまれるにあらざることあきらけし、さてまたもろこしも、周のころまでは、天子諸侯大夫も武をもてむねとするゆへ、其富をいふに、専軍役をもて、万乗千乗百乗とゝなへて、一国の内、上下貴賤軍役の内にあらざるものなし、さればその一乗には、甲士三人歩卒七十二人と定て、歩卒は農民にて、その将は即士なり、又公卿大夫その将となれば、公卿大夫も士と功をともにせり、ゆへに公卿の子もいまだ官につかざる内はその士なり、礼に士冠礼のみありて、公卿大夫の冠礼なきをもてしるべし、されば大御国のいにしへも、西土のいにしへも、公卿大夫に武家の名なけれども、みな武家といふべし、士の皆武士なることは、もとよりなり、詩の国風周南に、赳々武夫。公侯干城。
書き下し
世々物部の職を繼しめ給ひしこと、舊事記日本紀などにみえたり、さて物部はものゝべとよみ、又萬葉集にはものゝふとよめり、物とは兵をいへり、むかしの書に兵卒を物共といひ、武具を物の具といひ、後の世にも、兵士のつかさを物主物頭などいふをもて知るべし、されば物部は卽武士なり、(後の世の歌物語などに武士とかきて卽ものゝふとよめり)もろこしの士を事とよめるに略相似たり、武士の名、源平氏にはじまれるにあらざることあきらけし、さてまたもろこしも、周のころまでは、天子諸侯大夫も武をもてむねとするゆへ、其富をいふに、專軍役をもて、萬乘千乘百乘とゝなへて、一國の內、上下貴賤軍役の內にあらざるものなし、さればその一乘には、甲士三人步卒七十二人と定て、步卒は農民にて、その將は即士なり、又公卿大夫その將となれば、公卿大夫も士と功をともにせり、ゆへに公卿の子もいまだ官につかざる內はその士なり、禮に士冠禮のみありて、公卿大夫の冠禮なきをもてしるべし、されば大御國のいにしへも、西土のいにしへも、公卿大夫に武家の名なけれども、みな武家といふべし、士の皆武士なることは、もとよりなり、詩の國風周南に、赳々武夫。公侯干城。
現代語訳
代々物部の職を継がせられたことは、『旧事記』『日本紀』などに見えます。さて物部は「ものべ」と読み、また『万葉集』では「ものゝふ」と読みます。物とは兵のことです。昔の書に兵卒を「物ども」といい、武具を「物の具」といい、後の世にも兵士の頭を「物主」「物頭」などというので分かります。ですから物部はすなわち武士です。(後の世の歌物語などに、武士と書いて「ものゝふ」と読んでいます。)中国で士を「事」と読むのとほぼ似ています。武士の名が源平の氏から始まったのではないことは明らかです。さてまた中国も、周のころまでは、天子・諸侯・大夫も武を主としたので、その富を言うのに、もっぱら軍役によって、万乗・千乗・百乗と唱え、一国のうち上下貴賤に軍役の内にないものはありません。そしてその一乗には、甲士三人、歩卒七十二人と定めており、歩卒は農民で、その将がすなわち士です。また公卿・大夫がその将となれば、公卿・大夫も士と功を同じくしました。そのため公卿の子もまだ官に就かないうちはその士です。『礼』に士冠礼だけがあって、公卿・大夫の冠礼がないことで分かります。ですから、わが国の上古も中国の上古も、公卿・大夫に武家の名はなくても、みな武家というべきです。士がみな武士であることは、もとよりのことです。『詩経』国風・周南に「赳赳たる武夫は、公侯の干城」
解説
この章句が説くこと
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説苑・善說晉獻公の時、東郭の民に祖朝なる者有り。上書して獻公に曰く、「草茅の臣、東郭の民祖朝、願わくは國家の計を聞くを請わん。」獻公使いをして出でて之に告げしめて曰く、「肉食する者已に之を慮れり。藿食する者尚お何ぞ與らんや。」祖朝對えて曰く、「大王獨り古の將桓司馬なる者を聞かざるか。朝々其の君に朝し、舉げて宴す。御車を呼ばば、驂も亦た車を呼ぶ。御其の驂に肘して曰く、『子何ぞ越えて云爲するか。何為れぞ藉りに車を呼ぶや。』驂其の御に謂いて曰く、『當に呼ぶべき者呼ぶは、乃ち吾が事なり。子は當に子の轡銜を正すべきのみ。子今轡銜を正さずして、馬をして卒然として驚かしめ、妄りに道中の行人を轢かば、必ず大敵に逢い、車を下り劍を免れ、血を涉り肝を履むは固より吾が事なり。子寧んぞ能く子の轡を辟け、下りて我を佐くるか。其の禍も亦た吾が身に及び、與に深憂有り。吾安んぞ車を呼ぶ無きを得んや。』今大王曰く、『肉を食う者已に之を慮れり、藿を食う者尚お何ぞ與らんや。』設し肉を食う者一旦廟堂の上に計を失わば、臣等藿を食う者の若きも、寧んぞ肝膽を中原の野に塗る無きを得んや。其の禍も亦た臣が身に及ぶ。臣與に其の憂い深し。臣安んぞ國家の計に與る無きを得んや。」獻公召して之を見、三日與に語り、復た憂うる者無し、乃ち立てて以て師と爲せり。
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言志四録・南洲手抄象山の、宇宙内の事は皆己れ分内の事は、此れ男子担当の志此の如きを謂ふなり。陳澔此を引いて射義を註す、極めて是なり。
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福翁自伝・王政維新・教員金の多少を争う右の通り三田の新塾は万事都合能く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めて之を教師に分配して、如何やら斯うやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云う考はない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請の時などには毎度此方から金を出して遣る。教師達もその通りで、外に出れば随分給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、是れも私金を出すと同じ事である。凡そコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の真面目を申せば、月末などに金を分配するとき、動もすれば教師の間に議論が起るその議論は即ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取る訳けはない、君の方が少ないと云うと、「イヤ爾うでない、僕は是れで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のように云てるから、私は側から見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だから宜い加減にして分けて仕舞え、争う程の事でもないと毎度笑て居ました。この通りで慶應義塾の成立は、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、又大学部の為めにも募り、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、一切の事を塾出身の若い人に任せて居ます。
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人生を、一行の式にしてみた。
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