士道要論 / 原士・泰平は先人の武の苦労の上にある
みな食ひつくさるべし、されば神聖いで給ひて、弓矢刀劍を作りて、禽獸を制し、人類を繁くし玉へり、此武のはじめなり、人常に治より亂にをもむくとのみ思へど、開闢のはじめよりみれば、常に亂より治におもむけり、武功なかりせば、文德は施しがたかるべし、これを周易の序次に考ふるにまたしかり、乾坤のゝち、わずかに屯蒙需訟の四卦を經て師となれり、屯の難める、蒙の穉きは、開闢のはじめなり、其つぎ需の飮食をもて、訟の爭ひをひきいだせば、師の軍旅を興して、うち平らぐることはなれり、さて師の次は比なり、比よりまた小畜履の二卦を經て泰となれり、雜卦傳に、師憂比樂とあり、比の樂をいたすは、師の憂苦して亂を平らぐるゆへなり、それより小畜にして物を畜へ、ものをたくわへて後、履の禮もできて、泰の泰平をいたす也、今の士大夫、師の憂なく比の樂ありて、泰の安きに居り、租を食み稅を衣て、やすく世をわたるとは、祖先の武の功德によればなり、もし武の功德をわすれ、驕奢安逸にすさみなば、泰變じて否の亂をなすべし、されば泰の次は否の卦なり、こひねがわくは、泰の否とならんことをおそれて、師の憂苦を思ひ、又その卦象の至險を大順の中によするといふ事を思ひて、武を太平のときにわすれず、國家の爲に爪牙とも腹心ともなるべきことにこそ、
新字:みな食ひつくさるべし、されば神聖いで給ひて、弓矢刀剣を作りて、禽獣を制し、人類を繁くし玉へり、此武のはじめなり、人常に治より乱にをもむくとのみ思へど、開闢のはじめよりみれば、常に乱より治におもむけり、武功なかりせば、文徳は施しがたかるべし、これを周易の序次に考ふるにまたしかり、乾坤のゝち、わずかに屯蒙需訟の四卦を経て師となれり、屯の難める、蒙の穉きは、開闢のはじめなり、其つぎ需の飲食をもて、訟の争ひをひきいだせば、師の軍旅を興して、うち平らぐることはなれり、さて師の次は比なり、比よりまた小畜履の二卦を経て泰となれり、雑卦伝に、師憂比楽とあり、比の楽をいたすは、師の憂苦して乱を平らぐるゆへなり、それより小畜にして物を畜へ、ものをたくわへて後、履の礼もできて、泰の泰平をいたす也、今の士大夫、師の憂なく比の楽ありて、泰の安きに居り、租を食み税を衣て、やすく世をわたるとは、祖先の武の功徳によればなり、もし武の功徳をわすれ、驕奢安逸にすさみなば、泰変じて否の乱をなすべし、されば泰の次は否の卦なり、こひねがわくは、泰の否とならんことをおそれて、師の憂苦を思ひ、又その卦象の至険を大順の中によするといふ事を思ひて、武を太平のときにわすれず、国家の為に爪牙とも腹心ともなるべきことにこそ、
書き下し
みな食ひつくさるべし、されば神聖いで給ひて、弓矢刀劍を作りて、禽獸を制し、人類を繁くし玉へり、此武のはじめなり、人常に治より亂にをもむくとのみ思へど、開闢のはじめよりみれば、常に亂より治におもむけり、武功なかりせば、文德は施しがたかるべし、これを周易の序次に考ふるにまたしかり、乾坤のゝち、わずかに屯蒙需訟の四卦を經て師となれり、屯の難める、蒙の穉きは、開闢のはじめなり、其つぎ需の飮食をもて、訟の爭ひをひきいだせば、師の軍旅を興して、うち平らぐることはなれり、さて師の次は比なり、比よりまた小畜履の二卦を經て泰となれり、雜卦傳に、師憂比樂とあり、比の樂をいたすは、師の憂苦して亂を平らぐるゆへなり、それより小畜にして物を畜へ、ものをたくわへて後、履の禮もできて、泰の泰平をいたす也、今の士大夫、師の憂なく比の樂ありて、泰の安きに居り、租を食み稅を衣て、やすく世をわたるとは、祖先の武の功德によればなり、もし武の功德をわすれ、驕奢安逸にすさみなば、泰變じて否の亂をなすべし、されば泰の次は否の卦なり、こひねがわくは、泰の否とならんことをおそれて、師の憂苦を思ひ、又その卦象の至險を大順の中によするといふ事を思ひて、武を太平のときにわすれず、國家の爲に爪牙とも腹心ともなるべきことにこそ、
現代語訳
みな食い尽くされてしまうでしょう。そこで神聖な方が現れて、弓矢や刀剣を作り、鳥獣を制し、人類を増やされました。これが武のはじめです。人は常に治から乱に向かうものとばかり思っていますが、開闢のはじめから見れば、常に乱から治に向かってきました。武功がなければ、文徳は施しがたいでしょう。これを『周易』の序卦の順に考えても同じです。乾・坤の後、わずかに屯・蒙・需・訟の四卦を経て師となります。屯の難儀、蒙の幼さは開闢のはじめです。その次の需の飲食が、訟の争いを引き出すと、師の軍旅を起こして討ち平らげることになります。さて師の次は比です。比からまた小畜・履の二卦を経て泰となります。『雑卦伝』に「師は憂え、比は楽しむ」とあります。比の楽しみが得られるのは、師が憂い苦しんで乱を平らげるからです。それから小畜で物を蓄え、蓄えた後に履の礼ができて、泰の泰平に至るのです。今の士大夫が、師の憂いなく比の楽しみがあって、泰の安らかな境遇に身を置き、租税の収入で暮らして、安楽に世を渡れるのは、祖先の武の功徳によるのです。もし武の功徳を忘れ、おごりと安逸にふければ、泰は変じて否の乱となるでしょう。だから泰の次は否の卦なのです。どうか、泰が否となることを恐れて、師の憂い苦しみを思い、また師の卦象が最も険しいものを大いなる従順のうちに寄せているということを思って、武を太平の時にも忘れず、国家のために爪牙とも腹心ともなるべきでありましょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『士道要論』・原士・武を軽んじる驕りが招く衰えへの戒めといひ、また公侯腹心といへり、それ武士を干城といひ、腹心とさへいへるに、中世にはいやしみて侍といひて、長袖の人の僕隸のごとくなれり、しばらくは從ひ居たれども、事變の會に及びて、武人遂に大君のすがたとなりて、公家の人々は權柄を失ひたまひぬ、これもと公家の士の名義を失ひて、武事をいやしみしがゆへなり、されど公家のことは、既に適にし事なれば、とかふ云べからず、余は承平の久しき武士たるものも、むかしの公家のすがたになりゆかんことを恐れて、かくはいふなり、おほよそ武をうとみて賤むにいたるは、よくも其功德をわきまへざるがゆへなり、武の貴く功德あることは、天祖の寶劍をつたへ玉ひ、左傳に武の七德をのぶるにてもしるべし、されば神聖天下を治めたまふに、文事武備兼用ること、車の兩輪、鳥の兩翼のごとし、世儒いたづらに湯武の征伐をもて、堯舜の揖讓に及ぼすごとし、武を第二義と思ふものもあれど、堯舜より先つかた、黃帝すでに武をもつて天下を定て、そのゝち禮樂文治の沙汰には及べるなり、御國もまたしかり、仁德履仲の列聖、衣裳をたれて天下をしろしめされたれど、神武崇神應神などのすべらぎ、そのまへにゐまして、干戈を用ひたまひ、經津主命武甕命等、その事ありてこそ、後の太平をひらきたるなれ、又開闢のはじめといへど、猛獸鷲鳥橫行する時に、人は爪牙の利もなくして、其中に立まじらはゞ、
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『士道要論』・原士・士の字は戦事を意味するという考察遂に大臣たらん人の物具したるためし、古よりなきよし、物にも書けるにいたれり、いかに思ひあやまてるにや、さて文武を分てること、西土隋唐の世にも見えず、まして西土のいにしへは、左氏傳にも、國之大事は在祀與戎とさへいひて、天子諸侯も士卒の將となりて征伐すること、こゝの古のおもむきによく似たり、かく天子諸侯も、士卒の將となり、武をもて職としたれば士の武をもて名とすることもことわりならずや、且士といふ文字を考ふるに、古訓に事とよめり、事は戎事より大きなることなければ、事とのみいへば、戎事をむねとすべし、論語に、將有事於顓臾とあり、事の戎事たる證なり、(祀も大事なれば、たゞ事とのみいへり、春秋に有事於大廟とは祀をいへり、餘事にたゞ事といふとはなし、)故に諸士の職多きなかに、兵刑をつかさどれる官のみを、ことに士とは云り、尙書に皐陶士の官をもて、蠻夷の夏を猾れるを平らげ、寇賊の姦宄なるをせめ詰れるをみてしるべし、周の世にいたりても、獄のつかさを士師といひ、其屬官に鄕士遂士などありて、いづれも暴をいましむるをもて職とするも、周官にみえたり、これも士の武をむねとする證とすべし、大御國のいにしへは、美眞手の命、神武帝の御時、天の物部をひきゐて、あだを平らげ給ひ、又內の物部をもひきゐたまひしかば、天皇詔して、
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『士道要論』・自序・文武を貫く士の道を六つの論で示す孔子曰く、觚、觚ならず。觚なるかな、觚なるかな、と。蓋し物のその旧を失うを嘆くなり。余、当今の悠悠の士において、また私かにこの嘆きあり。遂に敢えて自ら量らず、この書を述べて、以て従遊の士に諗ぐと云う。夫れ士は武を以て質幹と為す。職任分かると雖も、その業は則ち同じ。原士第一を作る。凡そ人この業あれば、則ちこの風あり。故にその風一定して、而る後その業守るべし。士風第二を作る。風の由る所は気に在り。故にその気一たび奮いて、而る後その風恃むべし。士気第三を作る。気有りて節無ければ、益を欲して反って損す。故にその節一たび立ちて、而る後その気用うべし。士節第四を作る。気節の源は心より出づ。先ずその源を浚えて、而る後その流れ洪いなるべし。士心第五を作る。心に公私有り。唯その心の恃みにして、その道の求めざるべけんや。且つ士の職は、以て上に奉ずる有り、以て下に臨む有り。上下の交わり、豈に各々その道無かるべけんや。士道第六を作る。蓋し士は武を以て業と為して、その職は必ず文に資る。文は道を知る所以なり。士にして道を知れば、能事畢る。以て篇の終と為す。然れども道の外に事無し。一文一武、道に非ざる者莫し。故に合わせてこれを名づけて、士道要論と曰うなり。蓋し士道は広しと雖も、文武に過ぎず。苟くもその偏廃すべからざるを知れば、則ち職業挙がらん。論は平平なりと雖も、庶わくはその要を得んか。読者、その語の浅く字の仮なるを以てこれを軽視すること勿かれ、可なり。天保八年龍集丁酉秋八月、斎藤正謙。
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『士道要論』・原士・士はもともと武に備える者の総称士の職くさ〳〵にわかれ、民を治る任あり、財を掌どる官あり、文學顧問に備はるものあり、侍御扈從をつとむるものあり、下は廚庖倉庫などの雜司にいたるまで、みな士と名付て兩刀を佩しめ、もぱら不虞に備へしめ、亂のおこり寇の出來ることあらんには、みな戈を提て事に從ふべき定なれば、なべてこれを武士といふなり、或人難じていへらく、いにしへ文武官をことにせり、武士といへるもの、源平の頃より始り、古制にあらずといへり、是よく古をしらざる人の言なり、官に文武をわかちそめしは、中昔このかたのことなり、あがれる御代の定にはあらざりき、さればいにしへ事あれば、公卿大臣はものかは、天子皇后もみづから軍をひきゐて、亂賊をうちほろぼし玉ひ、あるひは外國までも事むけ玉へることもありき、かく天子皇后も、士卒の將となり玉ひぬれば、公卿より下つかた、文武のけじめなきとしるべし、中昔よりこのかた、天子九重の內に人となりたまひ、公卿大臣以下も、大むね膏粱の子弟にて、金鼓の聲をきけば、頭をちぢめ、耳をふさぎて、おぢわなゝき、ものゝ用にたつべきものなかりしかば、源平などの家出來て、もぱら兵革のことをつかさどれることゝはなりぬ、夫より縉紳の人々思ひあがり、武事をおとしめて、卒徒の任とのみ思ひ玉ひ、
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易経・序卦物畜えられて然る後に礼有り、故に之を受くるに履(り)を以てす。履みて泰(やす)らかにして然る後に安し、故に之を受くるに泰を以てす。泰とは、通ずるなり。物は以て終に通ずべからず、故に之を受くるに否(ひ)を以てす。物は以て終に否がるべからず、故に之を受くるに同人を以てす。人と同じくする者には、物必ず帰す、故に之を受くるに大有を以てす。
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『士道要論』・士道・文武は車の両輪、太平の世の備え東照宮の御遺訓にも武家の公家をまなぶことをふかくいましめ玉へり、されば、有德公御世のはじめ白石が建議してたてたる四足門をばこぼちすて祖宗のふるきにかへし、眞の文武をばはげまして、東照宮の御定をまもり玉へり、ありがたき御事なり、東照宮の御定とは、武家諸法度にも第一にしるし玉へる文武の道まなぶべしとあることなり、夫文武の道は二にして一なり、一にして二なり、武ありて文德をもほどこすべく、文ありて武功をもたつべし、文人の文に流るゝは天地を經緯するの文をしらざればな、武人の武にかたよるは神武にして殺ざるの武をしらざればなり、これ何れも眞の文武の道とはいふべからず、眞の文武の道は、いはゆる車の兩輪鳥の兩翼のごとく、ひとつをすてばとびゆくことかなふまじ、漢の高祖は儒をこのまぬ君なれど、陸賈が言に折れ叔孫が議にしたがひて、馬上をもて天下を治めず、織田右府は武き大將なれど、義昭の將軍に學をすゝめ、稻葉一徹が書贊よみたるにめでゝ、ころし玉はざるなど、實學を學ぶにはあらねど、文のやむべからざるをしれるは、さすが英雄の才といふべし、まして、東照宮は千古にひいで玉へる才德にましませば、はやくも學の人に益あることをしろしめされ、干戈いまだ納らぬうちより海内に文敎をひろめ玉へるもむべなりけり、されど、戰國の人は種々の艱苦を甞め、國々の風土をもしり、こゝろをも練り人情にも通じたれば、學の力うすくとも經濟にも達すべし、かく久しくうちつゞきたる太平に生れたる人は、安座して食ひ、四方のさかいをもいでず、頑陋なること多して、耳もきくことなく目もみる事なければ、ふみよみてことをわきまふ事なからましかば、いつもかくあることのみ思ひて、風俗のをとろへゆくをも、政事のやぶれたるをもしらずしてすぎゆかん、危きことならずや、工匠の室を作れるは規矩により、醫師の病を治るも方によれり、士大夫己を治め人を治るになどか法なからざらんや、されば、聖人の道によりて、文武ならび用るこそ、まことに長久の道なれ、

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