士道要論 / 原士・士の字は戦事を意味するという考察
遂に大臣たらん人の物具したるためし、古よりなきよし、物にも書けるにいたれり、いかに思ひあやまてるにや、さて文武を分てること、西土隋唐の世にも見えず、まして西土のいにしへは、左氏傳にも、國之大事は在祀與戎とさへいひて、天子諸侯も士卒の將となりて征伐すること、こゝの古のおもむきによく似たり、かく天子諸侯も、士卒の將となり、武をもて職としたれば士の武をもて名とすることもことわりならずや、且士といふ文字を考ふるに、古訓に事とよめり、事は戎事より大きなることなければ、事とのみいへば、戎事をむねとすべし、論語に、將有事於顓臾とあり、事の戎事たる證なり、(祀も大事なれば、たゞ事とのみいへり、春秋に有事於大廟とは祀をいへり、餘事にたゞ事といふとはなし、)故に諸士の職多きなかに、兵刑をつかさどれる官のみを、ことに士とは云り、尙書に皐陶士の官をもて、蠻夷の夏を猾れるを平らげ、寇賊の姦宄なるをせめ詰れるをみてしるべし、周の世にいたりても、獄のつかさを士師といひ、其屬官に鄕士遂士などありて、いづれも暴をいましむるをもて職とするも、周官にみえたり、これも士の武をむねとする證とすべし、大御國のいにしへは、美眞手の命、神武帝の御時、天の物部をひきゐて、あだを平らげ給ひ、又內の物部をもひきゐたまひしかば、天皇詔して、
新字:遂に大臣たらん人の物具したるためし、古よりなきよし、物にも書けるにいたれり、いかに思ひあやまてるにや、さて文武を分てること、西土隋唐の世にも見えず、まして西土のいにしへは、左氏伝にも、国之大事は在祀与戎とさへいひて、天子諸侯も士卒の将となりて征伐すること、こゝの古のおもむきによく似たり、かく天子諸侯も、士卒の将となり、武をもて職としたれば士の武をもて名とすることもことわりならずや、且士といふ文字を考ふるに、古訓に事とよめり、事は戎事より大きなることなければ、事とのみいへば、戎事をむねとすべし、論語に、将有事於顓臾とあり、事の戎事たる証なり、(祀も大事なれば、たゞ事とのみいへり、春秋に有事於大廟とは祀をいへり、余事にたゞ事といふとはなし、)故に諸士の職多きなかに、兵刑をつかさどれる官のみを、ことに士とは云り、尚書に皐陶士の官をもて、蠻夷の夏を猾れるを平らげ、寇賊の姦宄なるをせめ詰れるをみてしるべし、周の世にいたりても、獄のつかさを士師といひ、其属官に郷士遂士などありて、いづれも暴をいましむるをもて職とするも、周官にみえたり、これも士の武をむねとする証とすべし、大御国のいにしへは、美真手の命、神武帝の御時、天の物部をひきゐて、あだを平らげ給ひ、又内の物部をもひきゐたまひしかば、天皇詔して、
書き下し
遂に大臣たらん人の物具したるためし、古よりなきよし、物にも書けるにいたれり、いかに思ひあやまてるにや、さて文武を分てること、西土隋唐の世にも見えず、まして西土のいにしへは、左氏傳にも、國之大事は在祀與戎とさへいひて、天子諸侯も士卒の將となりて征伐すること、こゝの古のおもむきによく似たり、かく天子諸侯も、士卒の將となり、武をもて職としたれば士の武をもて名とすることもことわりならずや、且士といふ文字を考ふるに、古訓に事とよめり、事は戎事より大きなることなければ、事とのみいへば、戎事をむねとすべし、論語に、將有事於顓臾とあり、事の戎事たる證なり、(祀も大事なれば、たゞ事とのみいへり、春秋に有事於大廟とは祀をいへり、餘事にたゞ事といふとはなし、)故に諸士の職多きなかに、兵刑をつかさどれる官のみを、ことに士とは云り、尙書に皐陶士の官をもて、蠻夷の夏を猾れるを平らげ、寇賊の姦宄なるをせめ詰れるをみてしるべし、周の世にいたりても、獄のつかさを士師といひ、其屬官に鄕士遂士などありて、いづれも暴をいましむるをもて職とするも、周官にみえたり、これも士の武をむねとする證とすべし、大御國のいにしへは、美眞手の命、神武帝の御時、天の物部をひきゐて、あだを平らげ給ひ、又內の物部をもひきゐたまひしかば、天皇詔して、
現代語訳
ついには、大臣となるような人が武具を身につけた例は古来ないと、書物にまで書かれるようになりました。何と思い違いをしていることでしょうか。さて文武を分けることは、中国の隋・唐の世にも見られず、ましてや中国の上古では、『左氏伝』にも「国の大事は祭祀と戦争にある」とまで言い、天子や諸侯も兵卒の将となって征伐したことは、この国の上古のありさまとよく似ています。このように天子・諸侯も兵卒の将となって武を職としたのですから、士が武をもって名とするのも道理ではないでしょうか。また士という文字を考えると、古い訓では「事」と読みます。事は戦事より大きなことはありませんので、ただ事とだけ言えば、戦事を主とするはずです。『論語』に「将に顓臾に事有らんとす」とあるのは、事が戦事であることの証拠です。(祀も大事なので、ただ事とだけ言うことがあります。『春秋』に「大廟に事有り」とあるのは祀のことです。その他のことをただ事と言うことはありません。)そのため多くの士の職のなかで、兵と刑をつかさどる官だけを、特に士というのです。『尚書』で皐陶が士の官として、蛮夷が中国を乱すのを平らげ、賊の悪事を責め詰めたことを見れば分かります。周の世になっても、獄をつかさどる官を士師といい、その属官に郷士・遂士などがあって、いずれも暴力を戒めることを職としたことが『周官』に見えます。これも士が武を主とする証拠とすべきです。わが国の上古では、美真手命(うましまでのみこと)が神武天皇の時に、天の物部を率いて敵を平らげ、また内の物部をも率いられたので、天皇が詔して、
解説
この章句が説くこと
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『士道要論』・原士・士はもともと武に備える者の総称士の職くさ〳〵にわかれ、民を治る任あり、財を掌どる官あり、文學顧問に備はるものあり、侍御扈從をつとむるものあり、下は廚庖倉庫などの雜司にいたるまで、みな士と名付て兩刀を佩しめ、もぱら不虞に備へしめ、亂のおこり寇の出來ることあらんには、みな戈を提て事に從ふべき定なれば、なべてこれを武士といふなり、或人難じていへらく、いにしへ文武官をことにせり、武士といへるもの、源平の頃より始り、古制にあらずといへり、是よく古をしらざる人の言なり、官に文武をわかちそめしは、中昔このかたのことなり、あがれる御代の定にはあらざりき、さればいにしへ事あれば、公卿大臣はものかは、天子皇后もみづから軍をひきゐて、亂賊をうちほろぼし玉ひ、あるひは外國までも事むけ玉へることもありき、かく天子皇后も、士卒の將となり玉ひぬれば、公卿より下つかた、文武のけじめなきとしるべし、中昔よりこのかた、天子九重の內に人となりたまひ、公卿大臣以下も、大むね膏粱の子弟にて、金鼓の聲をきけば、頭をちぢめ、耳をふさぎて、おぢわなゝき、ものゝ用にたつべきものなかりしかば、源平などの家出來て、もぱら兵革のことをつかさどれることゝはなりぬ、夫より縉紳の人々思ひあがり、武事をおとしめて、卒徒の任とのみ思ひ玉ひ、
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『士道要論』・原士・物部と周の軍役にみる武士の源流世々物部の職を繼しめ給ひしこと、舊事記日本紀などにみえたり、さて物部はものゝべとよみ、又萬葉集にはものゝふとよめり、物とは兵をいへり、むかしの書に兵卒を物共といひ、武具を物の具といひ、後の世にも、兵士のつかさを物主物頭などいふをもて知るべし、されば物部は卽武士なり、(後の世の歌物語などに武士とかきて卽ものゝふとよめり)もろこしの士を事とよめるに略相似たり、武士の名、源平氏にはじまれるにあらざることあきらけし、さてまたもろこしも、周のころまでは、天子諸侯大夫も武をもてむねとするゆへ、其富をいふに、專軍役をもて、萬乘千乘百乘とゝなへて、一國の內、上下貴賤軍役の內にあらざるものなし、さればその一乘には、甲士三人步卒七十二人と定て、步卒は農民にて、その將は即士なり、又公卿大夫その將となれば、公卿大夫も士と功をともにせり、ゆへに公卿の子もいまだ官につかざる內はその士なり、禮に士冠禮のみありて、公卿大夫の冠禮なきをもてしるべし、されば大御國のいにしへも、西土のいにしへも、公卿大夫に武家の名なけれども、みな武家といふべし、士の皆武士なることは、もとよりなり、詩の國風周南に、赳々武夫。公侯干城。
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『士道要論』・原士・武を軽んじる驕りが招く衰えへの戒めといひ、また公侯腹心といへり、それ武士を干城といひ、腹心とさへいへるに、中世にはいやしみて侍といひて、長袖の人の僕隸のごとくなれり、しばらくは從ひ居たれども、事變の會に及びて、武人遂に大君のすがたとなりて、公家の人々は權柄を失ひたまひぬ、これもと公家の士の名義を失ひて、武事をいやしみしがゆへなり、されど公家のことは、既に適にし事なれば、とかふ云べからず、余は承平の久しき武士たるものも、むかしの公家のすがたになりゆかんことを恐れて、かくはいふなり、おほよそ武をうとみて賤むにいたるは、よくも其功德をわきまへざるがゆへなり、武の貴く功德あることは、天祖の寶劍をつたへ玉ひ、左傳に武の七德をのぶるにてもしるべし、されば神聖天下を治めたまふに、文事武備兼用ること、車の兩輪、鳥の兩翼のごとし、世儒いたづらに湯武の征伐をもて、堯舜の揖讓に及ぼすごとし、武を第二義と思ふものもあれど、堯舜より先つかた、黃帝すでに武をもつて天下を定て、そのゝち禮樂文治の沙汰には及べるなり、御國もまたしかり、仁德履仲の列聖、衣裳をたれて天下をしろしめされたれど、神武崇神應神などのすべらぎ、そのまへにゐまして、干戈を用ひたまひ、經津主命武甕命等、その事ありてこそ、後の太平をひらきたるなれ、又開闢のはじめといへど、猛獸鷲鳥橫行する時に、人は爪牙の利もなくして、其中に立まじらはゞ、
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『士道要論』・自序・文武を貫く士の道を六つの論で示す孔子曰く、觚、觚ならず。觚なるかな、觚なるかな、と。蓋し物のその旧を失うを嘆くなり。余、当今の悠悠の士において、また私かにこの嘆きあり。遂に敢えて自ら量らず、この書を述べて、以て従遊の士に諗ぐと云う。夫れ士は武を以て質幹と為す。職任分かると雖も、その業は則ち同じ。原士第一を作る。凡そ人この業あれば、則ちこの風あり。故にその風一定して、而る後その業守るべし。士風第二を作る。風の由る所は気に在り。故にその気一たび奮いて、而る後その風恃むべし。士気第三を作る。気有りて節無ければ、益を欲して反って損す。故にその節一たび立ちて、而る後その気用うべし。士節第四を作る。気節の源は心より出づ。先ずその源を浚えて、而る後その流れ洪いなるべし。士心第五を作る。心に公私有り。唯その心の恃みにして、その道の求めざるべけんや。且つ士の職は、以て上に奉ずる有り、以て下に臨む有り。上下の交わり、豈に各々その道無かるべけんや。士道第六を作る。蓋し士は武を以て業と為して、その職は必ず文に資る。文は道を知る所以なり。士にして道を知れば、能事畢る。以て篇の終と為す。然れども道の外に事無し。一文一武、道に非ざる者莫し。故に合わせてこれを名づけて、士道要論と曰うなり。蓋し士道は広しと雖も、文武に過ぎず。苟くもその偏廃すべからざるを知れば、則ち職業挙がらん。論は平平なりと雖も、庶わくはその要を得んか。読者、その語の浅く字の仮なるを以てこれを軽視すること勿かれ、可なり。天保八年龍集丁酉秋八月、斎藤正謙。
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『匡正論』・文と武はもとひとつの安民の道文武之義知れ易きに似て其實知れ易きに非るにや、俗士動もすれば其實を失ふものあり、夫文と云は中華先聖王の立賜へる道を狀りて云たる也、其道をさして文と云は如何となれば、先天に天文と云、地に地理と云、先王の道の大原より出て、天に法りて道を立玉ひ、禮樂の敎粲然たる以天下を安治する道なる故に文とは云也、武と云は文字に於ても止戈を義とする也、又戡亂也と注して、天下の亂逆を靜むるをさして云也、故に武の本意は民を安ずるの仁心より亂逆を靜て國土を安ぜん爲にて、先王安民の道の一端にて、治る時は文を用ひ亂る時は武を用ふと云までの事にて、畢竟文武は唯一道なり、後世の如き文道武道と云樣なる別にては無き也、古の君子の先王の道を學と云ふは學宮の中に優游而六藝を學び行ひ自然に其位を成す、各性質の偏有に因て盛德の上にて見れば、文事の人ともなり、されば古も文武兼備の人を以て盛德とする事にて、其故は軍事あれば六卿皆出て將軍となる事なれば、文武の才にあらざれば卿とは成がたきなり、三代の君子みな劍を帶するも是故也、後世秦漢以後の文武宮を殊にし政を殊にする比ひには非ずと知るべし、故に詩經に尹吉甫稱して、文武吉甫萬邦爲憲と云へり、又禮記に勇而有强力者、天下無事、則用之於禮儀、天下有事、則用之於戰勝、則無敵、用之禮儀則順治、外無敵、內順治、此之謂盛德と云へり、君子の勇强は匹夫兵卒の比ひに非る事可見也、又左傳僖公二十七年に、晉國將軍の才を撰び、卻縠と云人禮樂を說び詩書に敦なるを以て擢て將軍となせし事あり、後世より見れば、將軍の才の撰び方格別なる樣なれども、
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『士道心得書』・士の道は文と武士の道は則ち武なり。理を以て之を導く、是を文と云ひて、刑罰を以て之を導く、是を武と云ふ、云云。常を治むるを文と云ひて、變を治むるを武と云ふ。然り乍ら武は變にのみ用ゐるものにあらず。變は治中に起こるものなれば、常に武を備へざる時は、禍亂をなす、故に君として德を脩めず、民を敎へず、守護とならざる時は、三民流亡す。士として武道を能くせざる時は、士も亦遊民なり。

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