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士道要論 / 原士・士はもともと武に備える者の総称

士の職くさ〳〵にわかれ、民を治る任あり、財を掌どる官あり、文學顧問に備はるものあり、侍御扈從をつとむるものあり、下は廚庖倉庫などの雜司にいたるまで、みな士と名付て兩刀を佩しめ、もぱら不虞に備へしめ、亂のおこり寇の出來ることあらんには、みな戈を提て事に從ふべき定なれば、なべてこれを武士といふなり、或人難じていへらく、いにしへ文武官をことにせり、武士といへるもの、源平の頃より始り、古制にあらずといへり、是よく古をしらざる人の言なり、官に文武をわかちそめしは、中昔このかたのことなり、あがれる御代の定にはあらざりき、さればいにしへ事あれば、公卿大臣はものかは、天子皇后もみづから軍をひきゐて、亂賊をうちほろぼし玉ひ、あるひは外國までも事むけ玉へることもありき、かく天子皇后も、士卒の將となり玉ひぬれば、公卿より下つかた、文武のけじめなきとしるべし、中昔よりこのかた、天子九重の內に人となりたまひ、公卿大臣以下も、大むね膏粱の子弟にて、金鼓の聲をきけば、頭をちぢめ、耳をふさぎて、おぢわなゝき、ものゝ用にたつべきものなかりしかば、源平などの家出來て、もぱら兵革のことをつかさどれることゝはなりぬ、夫より縉紳の人々思ひあがり、武事をおとしめて、卒徒の任とのみ思ひ玉ひ、

新字:士の職くさ〳〵にわかれ、民を治る任あり、財を掌どる官あり、文学顧問に備はるものあり、侍御扈従をつとむるものあり、下は廚庖倉庫などの雑司にいたるまで、みな士と名付て両刀を佩しめ、もぱら不虞に備へしめ、乱のおこり寇の出来ることあらんには、みな戈を提て事に従ふべき定なれば、なべてこれを武士といふなり、或人難じていへらく、いにしへ文武官をことにせり、武士といへるもの、源平の頃より始り、古制にあらずといへり、是よく古をしらざる人の言なり、官に文武をわかちそめしは、中昔このかたのことなり、あがれる御代の定にはあらざりき、さればいにしへ事あれば、公卿大臣はものかは、天子皇后もみづから軍をひきゐて、乱賊をうちほろぼし玉ひ、あるひは外国までも事むけ玉へることもありき、かく天子皇后も、士卒の将となり玉ひぬれば、公卿より下つかた、文武のけじめなきとしるべし、中昔よりこのかた、天子九重の内に人となりたまひ、公卿大臣以下も、大むね膏粱の子弟にて、金鼓の声をきけば、頭をちぢめ、耳をふさぎて、おぢわなゝき、ものゝ用にたつべきものなかりしかば、源平などの家出来て、もぱら兵革のことをつかさどれることゝはなりぬ、夫より縉紳の人々思ひあがり、武事をおとしめて、卒徒の任とのみ思ひ玉ひ、

書き下し

士の職くさ〳〵にわかれ、民を治る任あり、財を掌どる官あり、文學顧問に備はるものあり、侍御扈從をつとむるものあり、下は廚庖倉庫などの雜司にいたるまで、みな士と名付て兩刀を佩しめ、もぱら不虞に備へしめ、亂のおこり寇の出來ることあらんには、みな戈を提て事に從ふべき定なれば、なべてこれを武士といふなり、或人難じていへらく、いにしへ文武官をことにせり、武士といへるもの、源平の頃より始り、古制にあらずといへり、是よく古をしらざる人の言なり、官に文武をわかちそめしは、中昔このかたのことなり、あがれる御代の定にはあらざりき、さればいにしへ事あれば、公卿大臣はものかは、天子皇后もみづから軍をひきゐて、亂賊をうちほろぼし玉ひ、あるひは外國までも事むけ玉へることもありき、かく天子皇后も、士卒の將となり玉ひぬれば、公卿より下つかた、文武のけじめなきとしるべし、中昔よりこのかた、天子九重の內に人となりたまひ、公卿大臣以下も、大むね膏粱の子弟にて、金鼓の聲をきけば、頭をちぢめ、耳をふさぎて、おぢわなゝき、ものゝ用にたつべきものなかりしかば、源平などの家出來て、もぱら兵革のことをつかさどれることゝはなりぬ、夫より縉紳の人々思ひあがり、武事をおとしめて、卒徒の任とのみ思ひ玉ひ、

現代語訳

士の職務は様々に分かれていて、民を治める任務があり、財政をつかさどる官があり、学問で君主の相談役に備えるものがあり、側近として供奉するものがあり、下は台所や倉庫などの雑務にいたるまで、みな士と名づけて二本の刀を帯びさせ、もっぱら不測の事態に備えさせ、乱が起こり賊が現れるようなことがあれば、みな戈を取って事にあたる定めですので、すべてを武士というのです。ある人が非難して言うには、昔は文官と武官は別であった、武士というものは源平のころから始まり、古い制度ではない、と。これは古いことをよく知らない人の言葉です。官を文武に分けはじめたのは、中昔(中世)以来のことで、上代の定めではありませんでした。ですから昔、事があれば、公卿・大臣はもちろん、天子・皇后もみずから軍を率いて反乱の賊を討ち滅ぼされ、あるいは外国にまで兵を向けられたこともありました。このように天子・皇后も兵卒の将となられたのですから、公卿より下の者に文武の区別はなかったと知るべきです。中昔以来、天子は宮中の奥で育たれ、公卿・大臣以下もおおかたは裕福な家の子弟で、軍の鉦や太鼓の音を聞くと頭を縮め耳をふさいで怖れ震え、役に立つ者がいませんでしたので、源平などの家が現れて、もっぱら戦のことをつかさどることになりました。それ以来、公家の人々は思い上がって武事を見下し、兵卒の任務とばかり思われ、

解説

この章句は、士とは本来、行政や財政、学問など役割は違っても、いざという時に備える者の総称であり、文武の区別は古くからあったわけではないと説いています。武を卑しめた公家が実権を失ったという歴史の見方が背景にあります。現代の組織に置き換えると、管理職は企画や管理など専門が分かれていても、危機の際には全員が当事者として動く覚悟が求められるということです。自分の担当領域の外でも、緊急時に何を担えるかを日ごろから考えておくことが、組織の底力になります。

この章句が説くこと

士道要論斎藤拙堂士の起源文武一体危機への備え公家と武家

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