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洗心洞箚記 / 卷下・第百三十四條

陽明先生語錄曰、或問異端、先生曰、與愚夫愚婦同的、是謂同德、與愚夫愚婦異的、是謂異端、謹按、世以先生學爲高妙、故謂之禪甚誤也、能觀此語、以學其道、則至淺至近、而何高妙之與禪之有、所謂與愚夫婦同的何、是就其夜氣愛親敬兄知善知惡之良心言也、其良心、卽與赤子一般、赤子之心、乃聖人之心也、聖人特擴充焉耳、若夫固於氣習物欲、而不能擴充者、是乃愚夫婦之所以終乎愚夫婦也、然良心以愚夫婦皆有、故聽伯夷之餓、則心皆是之、聽盜跖之侈、則口盡非之、故同的者、只是此良心而已矣、良心者、良知也、故外良知學則異端矣、聖人復起不必易斯言矣、

新字:陽明先生語録曰、或問異端、先生曰、与愚夫愚婦同的、是謂同徳、与愚夫愚婦異的、是謂異端、謹按、世以先生学為高妙、故謂之禅甚誤也、能観此語、以学其道、則至浅至近、而何高妙之与禅之有、所謂与愚夫婦同的何、是就其夜気愛親敬兄知善知悪之良心言也、其良心、即与赤子一般、赤子之心、乃聖人之心也、聖人特擴充焉耳、若夫固於気習物欲、而不能擴充者、是乃愚夫婦之所以終乎愚夫婦也、然良心以愚夫婦皆有、故聴伯夷之餓、則心皆是之、聴盗跖之侈、則口尽非之、故同的者、只是此良心而已矣、良心者、良知也、故外良知学則異端矣、聖人復起不必易斯言矣、

書き下し

陽明先生語録に曰く、或ひと異端を問ふ。先生曰く、愚夫愚婦と同じき的、是れを同徳と謂ひ、愚夫愚婦と異なる的、是れを異端と謂ふ、と。謹んで按ずるに、世先生の学を以て高妙と為す。故に之を禅と謂ふは甚だ誤れり。能く此の語を観て、以て其の道を学ばば、則ち至浅至近にして、何の高妙と禅と之れ有らん。所謂愚夫婦と同じき的とは何ぞや。是れ其の夜気・親を愛し兄を敬す・善を知り悪を知るの良心に就きて言ふなり。其の良心は、即ち赤子と一般にして、赤子の心は、乃ち聖人の心なり。聖人は特に焉を拡充するのみ。若し夫れ気習物欲に固められて、拡充する能はざる者は、是れ乃ち愚夫婦の愚夫婦に終はる所以なり。然れども良心は愚夫婦皆有るを以て、故に伯夷の餓うるを聴けば、則ち心皆之を是とし、盗跖の侈れるを聴けば、則ち口尽く之を非とす。故に同じき的とは、只だ是れ此の良心のみ。良心とは、良知なり。故に良知を外にするの学は則ち異端なり。聖人復た起るとも、必ず斯の言を易へざらん。

現代語訳

『陽明先生語録』(伝習録)に言う。ある人が異端について尋ねた。先生は言った。「愚かな男女と同じであるもの、これを同徳といい、愚かな男女と異なるもの、これを異端という」。謹んで考えるに、世の人は先生の学を高尚で玄妙なものとし、だから禅だと言うが、それははなはだ誤っている。この言葉をよく見てその道を学べば、ごく浅くごく身近なもので、何の高妙さ、何の禅があろうか。いわゆる「愚かな男女と同じであるもの」とは何か。それは夜気(夜の静けさに戻る清らかな気)や、親を愛し兄を敬う心、善を知り悪を知る良心について言うのである。その良心は赤子と同じであり、赤子の心はそのまま聖人の心である。聖人はただそれを押し広げただけである。もし気質の習いや物欲に固められて押し広げられない者は、それこそ愚かな男女が愚かな男女のままで終わるわけである。しかし良心は愚かな男女もみな持っているから、伯夷が餓死したと聞けば心でみなそれを正しいとし、盗跖のおごりを聞けば口でみなそれを非難する。だから「同じであるもの」とは、ただこの良心だけである。良心とは良知である。だから良知の外で学ぶ学問こそ異端である。聖人がふたたび現れても、必ずこの言葉を改めないだろう。

解説

『伝習録』の「愚夫愚婦と同じきを同徳と謂ひ、異なるを異端と謂ふ」を引き、陽明学は高妙な禅だという世評を中斎は退ける。誰もが持つ親を愛し善悪を知る良心、すなわち良知こそが聖人と凡人の共通の地盤であり、聖人はそれを拡充しただけだという。逆に良知を外にした学問こそが異端だと、異端の定義をひっくり返している点が鋭い。専門家ほど一般の人の素朴な感覚から離れがちだが、普通の人が「それはおかしい」と感じる感覚にこそ判断の拠り所がある。高度な理屈より、良心に照らすことを忘れないようにしたい。

この章句が説くこと

良知良心異端陽明学心王陽明

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