言志四録 / 言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり
此心靈昭不昧。衆理具。萬事出。果何從而得之。吾生之前。此心放在何處。吾歿之後。此心歸宿何處。果有生歿歟。無歟。着想到此。凛凛自惕。吾心卽天也。
新字:此心霊昭不昧。衆理具。万事出。果何従而得之。吾生之前。此心放在何処。吾歿之後。此心帰宿何処。果有生歿歟。無歟。着想到此。凛凛自惕。吾心即天也。
書き下し
此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
現代語訳
この心は霊妙で明るく曇りがなく、あらゆる道理がそなわり、あらゆる事がここから生じる。いったいどこからこれを得たのか。自分が生まれる前、この心はどこに置かれていたのか。自分が死んだ後、この心はどこに帰り宿るのか。そもそも心に生や死があるのか、ないのか。ここまで思いを致すと、身が引き締まる思いがして自ら畏れ慎む。わが心はすなわち天なのである。
解説
「霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ」は、朱子が『大学章句』で明徳を「虚霊不昧、以て衆理を具へて万事に応ずる者」と説いたことを踏まえた表現です。一斎はその心がどこから来て、死後どこへ行くのかと問いを重ね、生死を超えたものとしての心に思い至ります。そして「凛凛として自ら惕る」、畏れに身が引き締まる感覚のなかで、わが心は天そのものだと結論します。前二条の、人は大地であるという思索が、ここで心は天であるという方向へ深まっています。宗教的な問いに儒学の言葉で向き合った一条といえるでしょう。自分の判断の拠りどころをどこに置くかを考えるとき、手がかりになる深い言葉です。
この章句が説くこと
心天明徳生死畏敬
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