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洗心洞箚記 / 卷下・第百三十條

文公家貧、故諸生自遠至者、豆飯藜羹、率與之共、往往稱貸於人、以給用、非其道義、一介不取、是非以不忘在溝壑爲念、孰晏如能之哉、奸人胡紘陳賈等希時相旨、紛起羣攻、誣道學以僞學、又以爲逆黨、詔諭之天下、故攻道學者日急、選人余某者、上書乞斬文公、而文公講學不休、是非見得道理、不見那刀鋸鼎鑊者、孰裕如處之哉、由是觀之、則可謂文公之志氣振乎百世之上、而興起於百世之下矣、如又讀其書而學其道、不能堪斯苦節者、豈師尊私淑焉云乎哉、宜乎、薛文淸公曰、自朱子沒、而道之所寄、不越乎言語文辭之間、能因文辭而得朱子之心學者、許魯齋一人而已、是知言也、

新字:文公家貧、故諸生自遠至者、豆飯藜羹、率与之共、往往称貸於人、以給用、非其道義、一介不取、是非以不忘在溝壑為念、孰晏如能之哉、奸人胡紘陳賈等希時相旨、紛起羣攻、誣道学以偽学、又以為逆党、詔諭之天下、故攻道学者日急、選人余某者、上書乞斬文公、而文公講学不休、是非見得道理、不見那刀鋸鼎鑊者、孰裕如処之哉、由是観之、則可謂文公之志気振乎百世之上、而興起於百世之下矣、如又読其書而学其道、不能堪斯苦節者、豈師尊私淑焉云乎哉、宜乎、薛文清公曰、自朱子没、而道之所寄、不越乎言語文辞之間、能因文辞而得朱子之心学者、許魯斎一人而已、是知言也、

書き下し

文公家貧し、故に諸生の遠きより至る者は、豆飯藜羹、率ね之と共にし、往往人に称貸して、以て用に給す。其の道義に非ざれば、一介も取らず。是れ溝壑に在るを忘れずを以て念と為すに非ずんば、孰か晏如として之を能くせんや。奸人胡紘・陳賈等、時相の旨を希ひ、紛として起ちて群攻し、道学を誣ひて偽学と以為し、又以て逆党と為し、之を天下に詔諭す。故に道学を攻むる者日に急なり。選人余某なる者、上書して文公を斬らんことを乞ふ。而して文公講学して休まず。是れ道理を見得て、那の刀鋸鼎鑊を見ざる者に非ずんば、孰か裕如として之に処せんや。是に由りて之を観れば、則ち文公の志気は百世の上に振ひて、百世の下に興起すと謂ふべし。如し又其の書を読みて其の道を学び、斯の苦節に堪ふる能はざる者は、豈に師尊私淑すと云はんや。宜なるかな、薛文清公曰く、朱子没してより、道の寄する所、言語文辞の間を越えず。能く文辞に因りて朱子の心学を得る者は、許魯斎一人のみ、と。是れ言を知るなり。

現代語訳

文公(朱子)の家は貧しかった。それで遠方から来た門生たちとは、豆の飯とあかざの吸い物をおおむね共にし、しばしば人から借金して費用にあてた。道義にかなわなければ、ちり一つも受け取らなかった。これは「志士は溝や谷に屍をさらすことを忘れない」を心に置く人でなければ、だれが平然とできようか。悪人の胡紘・陳賈らが時の宰相の意向に迎合して、次々に立ち上がって群がり攻め、道学をそしって偽学とし、さらに反逆の徒党として、天下に布告した。それで道学を攻める者は日ごとに激しくなった。任官待ちの余某という者は、上書して文公を斬るよう願い出た。それでも文公は講学を休まなかった。これは道理を見て取って、あの刀鋸や鼎鑊を見ない者でなければ、だれがゆったりとこれに処せようか。これから見ると、文公の志と気概は百世の昔に奮い立ち、百世の後にも人を奮い起こすと言うべきである。もしその書を読みその道を学びながら、この苦しい節操に堪えられない者がいれば、どうして師として尊び私淑していると言えようか。もっともなことだ、薛文清公(薛瑄)が「朱子の没後、道が託されたのは言葉と文章の範囲を出なかった。文章を通して朱子の心の学を得た者は、許魯斎(許衡)ただ一人だけである」と言ったのは。これは言葉を知る者の言である。

解説

前段に続き、清貧の暮らしと慶元の偽学の禁のもとでも講学を休まなかった朱子の姿を描く。中斎は朱子の偉さを学説よりも苦節と気概に見ており、朱子を尊ぶと言いながらこの苦節に堪えない者は私淑とは言えないと断じる。薛瑄が「朱子の心学を得たのは許衡一人」と言ったのを引くのも、文辞ではなく心を受け継ぐことを重んじるためである。中斎自身ものちに乱を起こすが、ここでは思想として、道義のためには貧しさや迫害に屈しないという覚悟が語られている。逆風の中で自分の仕事の筋を守れるかを考えさせる一段である。

この章句が説くこと

生死義心学修己道義朱子

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