講孟余話 / 盡心上 第三十四章
是上章非其有而取之非義也、ト云ニ因テ、陳仲子ノ義、大義トスルニ足ラス、只是舍簞食豆羹之義ナルヲ云、陳仲子ノ事ハ、滕文公下篇末章ニ詳ナリ、仲子兄ヲ避ケ母ヲ離レ、吾祿ヲ食ハス、コレ亡親戚君臣上下ナリ、已ニ人ノ大倫ヲ外シタル人ナレハ、他ノ小義ハ復タ云フニ足ル者ナシ、今斉国大ナル如シト云トモ、畢竟簞食豆羹ト異ナルコトナシ、孟子論スル所ハ物ノ大小ニ非ス、乃チ義ノ大小ナリ、是ヲ以テ知ルヘシ、聖人ハ人倫ノ至ニテ、聖人ノ道ハ又人倫ヲ以テ大綱トス、受與ノ際テ至テハ、特ニ其細目ノミ、夷斉ノ餓死スル如クニシテ君臣ノ義アリ、匡章ノ養ハレサル如ニシテ、却テ父子ノ親アリト知ルヘシ
新字:是上章非其有而取之非義也、ト云ニ因テ、陳仲子ノ義、大義トスルニ足ラス、只是舎箪食豆羹之義ナルヲ云、陳仲子ノ事ハ、滕文公下篇末章ニ詳ナリ、仲子兄ヲ避ケ母ヲ離レ、吾禄ヲ食ハス、コレ亡親戚君臣上下ナリ、已ニ人ノ大倫ヲ外シタル人ナレハ、他ノ小義ハ復タ云フニ足ル者ナシ、今斉国大ナル如シト云トモ、畢竟箪食豆羹ト異ナルコトナシ、孟子論スル所ハ物ノ大小ニ非ス、乃チ義ノ大小ナリ、是ヲ以テ知ルヘシ、聖人ハ人倫ノ至ニテ、聖人ノ道ハ又人倫ヲ以テ大綱トス、受与ノ際テ至テハ、特ニ其細目ノミ、夷斉ノ餓死スル如クニシテ君臣ノ義アリ、匡章ノ養ハレサル如ニシテ、却テ父子ノ親アリト知ルヘシ
書き下し
是れ上章「其の有に非ずして之を取るは義に非ず」と云ふに因りて、陳仲子の義、大義とするに足らず、只是れ簞食豆羹を舎つるの義なるを云ふ。陳仲子の事は、滕文公下篇末章に詳らかなり。仲子兄を避け母を離れ、吾が禄を食はず、これ親戚・君臣・上下を亡みするなり。已に人の大倫を外したる人なれば、他の小義は復た云ふに足る者なし。今斉国大なる如しと云へども、畢竟簞食豆羹と異なることなし。孟子論ずる所は物の大小に非ず、乃ち義の大小なり。是れを以て知るべし、聖人は人倫の至りにて、聖人の道は又人倫を以て大綱とす。受与の際に至りては、特に其の細目のみ。夷・斉の餓死する如くにして君臣の義あり、匡章の養はれざる如くにして、却つて父子の親ありと知るべし。
現代語訳
これは前の章の「自分のものでないのに取るのは義ではない」と言ったことを受けて、陳仲子の義は大義とするに足りず、ただ竹の器一杯の飯や椀一杯の汁を断る程度の義にすぎないことを言っている。陳仲子のことは、滕文公下篇の末章に詳しい。仲子は兄を避け母のもとを離れ、兄の禄を食べなかった。これは親族・君臣・上下の関係をないがしろにすることである。すでに人の大きな道を外した人であるから、ほかの小さな義など言うに足りない。たとえ斉の国を与えられても受けないほど大きな義に見えても、結局は一杯の飯や汁と変わりがない。孟子が論じているのは物の大小ではなく、義の大小なのである。このことから分かる。聖人は人の道の極みであり、聖人の道はまた人倫を大綱とする。物を受け取るか与えるかは、その細目にすぎない。伯夷・叔斉が餓死したようにしても、そこに君臣の義があり、匡章が父に養われなかったようにしても、かえって父子の親しみがあったことを知るべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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