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洗心洞箚記 / 卷下・第百二十九條

右十有二條、乃朱子讀書爲學之矩護也、而可謂深切丁寧矣、故人解之似甚易、而行之益難矣、朱子沒後、其學者果以我觀書乎、抑以書博我乎、恐以書博我者多矣、然則雖口倡朱學、而實則非其門外漢而何、讀聖賢之言、求之身心、而有意於敎化風俗乎、恐雖讀之、不通於心、不有於身、而外視敎化風俗者亦多矣、以此類比書肆之誡、朱子旣已言之、則非待薛文淸胡敬齋而始貶也、解釋文義、繭絲牛毛、而語道以履之乎、恐語道以履之者不多矣、解釋文義何爲之呵責、旣起乎朱子、而不起乎陸王明明焉、讀書以治心乎、恐讀書不治心者十九、然則向外奔馳必矣、此亦不能弛於朱子反爲之害、與迷惑之甚之憂患也、於紙上尋行數墨而已乎、亦能見得聖賢心事乎、如不能見得聖賢心事、則非無面目對於朱子乎、就身上推究乎、不就身上推究、則謂朱學可乎、

新字:右十有二条、乃朱子読書為学之矩護也、而可謂深切丁寧矣、故人解之似甚易、而行之益難矣、朱子没後、其学者果以我観書乎、抑以書博我乎、恐以書博我者多矣、然則雖口倡朱学、而実則非其門外漢而何、読聖賢之言、求之身心、而有意於教化風俗乎、恐雖読之、不通於心、不有於身、而外視教化風俗者亦多矣、以此類比書肆之誡、朱子既已言之、則非待薛文清胡敬斎而始貶也、解釈文義、繭糸牛毛、而語道以履之乎、恐語道以履之者不多矣、解釈文義何為之呵責、既起乎朱子、而不起乎陸王明明焉、読書以治心乎、恐読書不治心者十九、然則向外奔馳必矣、此亦不能弛於朱子反為之害、与迷惑之甚之憂患也、於紙上尋行数墨而已乎、亦能見得聖賢心事乎、如不能見得聖賢心事、則非無面目対於朱子乎、就身上推究乎、不就身上推究、則謂朱学可乎、

書き下し

右十有二条は、乃ち朱子読書為学の矩矱なり。而して深切丁寧と謂ふべし。故に人之を解すること甚だ易きに似て、之を行ふこと益々難し。朱子没して後、其の学者果して我を以て書を観るか、抑々書を以て我を博むるか。恐らくは書を以て我を博むる者多からん。然らば則ち口に朱学を倡ふと雖も、実は則ち其の門外漢に非ずして何ぞや。聖賢の言を読み、之を身心に求めて、教化風俗に意有るか。恐らくは之を読むと雖も、心に通ぜず、身に有せずして、教化風俗を外視する者亦多からん。此の類を以て書肆の誡に比す。朱子既已に之を言ふ、則ち薛文清・胡敬斎を待ちて始めて貶すに非ざるなり。文義を解釈すること、繭糸牛毛にして、道を語りて以て之を履むか。恐らくは道を語りて以て之を履む者多からず。文義を解釈するは何の為ぞの呵責は、既に朱子より起りて、陸王より起らざること明明たり。書を読みて以て心を治むるか。恐らくは書を読みて心を治めざる者十に九ならん。然らば則ち外に向ひて奔馳すること必せり。此れ亦朱子の反つて之が害を為すと、迷惑の甚しきとの憂患を弛むる能はざるなり。紙上に於いて行を尋ね墨を数ふるのみか。亦能く聖賢の心事を見得るか。如し聖賢の心事を見得る能はずんば、則ち朱子に対するに面目無きに非ずや。身上に就きて推究するか。身上に就きて推究せずんば、則ち朱学と謂ひて可ならんや。

現代語訳

右の十二条は、朱子の読書と学問の規矩(手本となる定め)であり、深く切実で丁寧なものと言える。だから人はこれを理解するのはたいへんやさしいようでいて、行うのはいよいよ難しい。朱子の没後、その学徒は本当に自分を主として書を読んだか、それとも書で自分を飾ったか。おそらく書で自分を飾った者が多いだろう。そうであれば、口では朱子学を唱えていても、実は朱子の門外漢でなくて何であろう。聖賢の言葉を読み、それを身と心に求めて、教化や風俗に心を向けているか。おそらく読んではいても、心に通じず身に備わらず、教化や風俗を他人事と見る者もまた多いだろう。こうした者を本屋にたとえる戒めは、すでに朱子自身が言っており、薛文清(薛瑄)や胡敬斎(胡居仁)を待ってはじめて批判されたのではない。文の意味を繭の糸や牛の毛のように細かく解釈して、道を語ってそれを実践しているか。おそらく道を語って実践する者は多くない。「文の意味を解釈して何になるのか」という叱責は、すでに朱子から起こったのであって、陸王(陸九淵・王守仁)から起こったのでないことは明らかである。書を読んで心を治めているか。おそらく書を読んでも心を治めない者が十人に九人だろう。そうであれば心が外へ駆けまわるのは必然である。これもまた、「かえって害をなす」「迷いのはなはだしいもの」という朱子の憂いを解くことはできない。紙の上で行をたどり墨の字を数えているだけか。それで聖賢の心のありようを見て取れるか。もし見て取れないなら、朱子に合わせる顔がないではないか。自分の身の上について推し究めているか。推し究めないなら、それを朱子学と言ってよいだろうか。

解説

ここから中斎自身の評である。引いた朱子の言葉を一つずつ問いの形にして、朱子没後の学者に突きつける。朱子学を口で唱えながら書で自分を飾るなら「門外漢」だという言い方は厳しい。注目すべきは、文義の解釈に溺れることへの叱責が陸九淵や王陽明より先に朱子自身から出ていると強調する点で、陽明学を異端視する当時の朱子学者への反論になっている。看板や流派の名を掲げることと、その教えを実際に生きることは別である。組織の理念を唱えるだけで行いが伴わない状態を省みる鏡としても読める。

この章句が説くこと

朱子学学問心修己読書朱子

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