都鄙問答 / 卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段
答、イカニモ書物ヲ讀コトニテ候、然ドモ書物ヲ讀テ、書ノ心ヲ知ラザレバ、學問トハイハズ、聖人ノ書ハ、自ラ心ヲ含メ玉フ、其心ヲ知ルヲ學問ト云、然ルニ文字バカリヲ知ルハ、一藝ナルユヘニ、文字藝者ト云、曰、書ヲ讀ハ同シテ、汝今分テ二ットスルハ、證アルコトニ候ヤ、
新字:答、イカニモ書物ヲ読コトニテ候、然ドモ書物ヲ読テ、書ノ心ヲ知ラザレバ、学問トハイハズ、聖人ノ書ハ、自ラ心ヲ含メ玉フ、其心ヲ知ルヲ学問ト云、然ルニ文字バカリヲ知ルハ、一芸ナルユヘニ、文字芸者ト云、曰、書ヲ読ハ同シテ、汝今分テ二ットスルハ、証アルコトニ候ヤ、
書き下し
答ふ、いかにも書物を読むことにて候。然れども書物を読みて、書の心を知らざれば、学問とはいはず。聖人の書は、自ら心を含め玉ふ。其心を知るを学問と云ふ。然るに文字ばかりを知るは、一芸なるゆへに、文字芸者と云ふ。曰く、書を読むは同じくして、汝今分けて二つとするは、証あることに候や。
現代語訳
梅岩は答えました。「もちろん学問とは書物を読むことです。けれども書物を読んでも、その書の心を知らなければ学問とは言いません。聖人の書には、おのずから心が込められています。その心を知ることを学問というのです。ところが文字だけを知っているのは一つの芸にすぎないので、文字芸者と呼ぶのです。」問う人「書を読むことは同じなのに、あなたがそれを二つに分けるのには、何か根拠があるのですか。」
解説
梅岩は書物を読むことを否定しません。問題は、読んで書の心を知るか、文字だけを知るかの違いだと言います。聖人の書には心が込められており、それを自分のものにすることが学問だ、という立場です。問う人は、同じ読書をなぜ二つに分けるのか、その根拠を求めます。マニュアルや研修で手順を覚えても、なぜその手順があるのかを理解しなければ応用がきかない、というのと同じ構図です。読んだものの意図まで受け取れているかを確かめる視点になります。

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学問読書心聖人理解
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『翁問答』序志学の年より、心に守り身に行べき、道理を求め得まく思ひ立て、禅門教門の釈教を、年経て学ふと雖、其言詖遁にして其道偏僻なり、其法亦人倫日用の受用に便りあらざる故に儒門に入て四書五経の真教を受て、切磋琢磨を励ませ共、三隅を反せざる程の下愚なれば、開悟の自得難及、既に道に立可き年をも空しく打過ぬ、愚者の誤る習ひなれば性の拙き事を忘て、却て師範の其人に非ざるかと疑ひ、明哲の先学もがなと寤寐に忘れず、
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『翁問答』下卷之本体充問曰、正真の学問は書物を読まずしてもなるものなりと承候へば、おほへにくき書物をよみ講釈を聞申ことはむづかしきに、いらぬ事かと存候。師の曰、大むかしの文字なき代には書物なきによつて、只聖人の言行を手本として学問をつとめたり、伏犠易書をつくり給ひ、文字はじまりてのちは、書物を読みその本意を講習し、わか心のかゞみとして学問をつとむるなり、
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『翁問答』下卷之本体充問曰、世俗のとりさたに、学問は物よみ坊主衆あるひは出家などのわざにして、士のしわざにあらず、学問すぎたる人はぬるくて武用の役に立がたしなど云て、士のうちに学問する人あれば却てそしりぬ、箇様のあやまりは何れの迷ひよりおこりたる事にておはしまし候や。師の曰、それは贋の学問はかり時めきて風俗あしく、衆生の心汚濁にそまりて、書物をよむばかりを学問と思ふより迷ひたる評判なり、それ学問は心のけがれを清め身のおこなひをよくするを本実とす、