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洗心洞箚記 / 卷下・第百條

小程子曰、學也者、使人求於內也、不求於內、而求於外、非聖人之學也、何謂外、以文爲主者、是也、學也者、使人求於本也、不求於本、而求於末、非聖人之學也、何謂末、考詳略、採同異者、是也、是二者、皆無益於身、君子弗學也、程子此等之說、與陽明先生精一之學無異矣、學者宜平心以見之也、

新字:小程子曰、学也者、使人求於内也、不求於内、而求於外、非聖人之学也、何謂外、以文為主者、是也、学也者、使人求於本也、不求於本、而求於末、非聖人之学也、何謂末、考詳略、採同異者、是也、是二者、皆無益於身、君子弗学也、程子此等之説、与陽明先生精一之学無異矣、学者宜平心以見之也、

書き下し

小程子曰く、学なる者は、人をして内に求めしむるなり。内に求めずして外に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか外と謂ふ、文を以て主と為す者、是れなり。学なる者は、人をして本に求めしむるなり。本に求めずして末に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか末と謂ふ、詳略を考へ、同異を採る者、是れなり。是の二者は、皆身に益無し、君子は学ばず、と。程子の此等の説は、陽明先生の精一の学と異なること無し。学者宜しく心を平らかにして以て之を見るべきなり。

現代語訳

小程子(程頤)は言う。「学とは、人に内に求めさせるものである。内に求めず外に求めるのは、聖人の学ではない。何を外というのか。文辞を主とすることがそれだ。学とは、人に根本に求めさせるものである。根本に求めず末に求めるのは、聖人の学ではない。何を末というのか。記述の詳しさ簡略さを考証し、諸説の同異を集めることがそれだ。この二つはどちらも身に益がない。君子は学ばない」。程子のこうした説は、陽明先生(王守仁)の精一の学と違いがない。学ぶ者は心を平らかにしてこれを見るべきである。

解説

学問とは内に求め本に求めるものであり、文辞の巧みさや考証の詳しさを主とするのは聖人の学ではないという程頤の言葉である。中斎はこれを陽明の「精一の学」と同じだと見る。精一は『書経』大禹謨の「惟精惟一」に由来し、心を純一にする工夫を指す。江戸後期の学界では考証学が盛んになっており、中斎はそれへの批判も込めている。現代でいえば、資料集めや比較検討に追われて、肝心の自分の判断や行動が変わらない状態への戒めとして読める。

この章句が説くこと

学問心修己精一考証程子

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