都鄙問答 / 卷之一・都鄙問答ノ段
答、厚キ志シ過分ノ至ナリ、先今日敎ヲナス志シヲ語ン、孟子曰、人之有道也、飽食煖衣、逸居而無敎、則近於禽獸、聖人有憂之、使契爲司徒、敎以人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信、此五ノ者ヲ能スルヲ學問ノ功トス、コレニテ古人ノ學ト云者ヲ知ルベシ、論語學而ノ篇ニモ、大抵皆本ヲ務コトヲ多セリ、人倫ノ大原ハ天ニ出テ、仁義禮智ノ良心ヨリナス、孟子又曰、學問之道無他、求其放心而已矣、此心ヲ知テ後ニ、聖人ノ行ヲ見テ法ヲ取ベシ、君ノ道ヲ盡玉フハ堯ニアリ、孝ノ道ヲ盡玉フハ舜ニアリ、臣ノ道ヲ盡玉フハ周公ニアリ、學問ノ道ヲ盡玉フハ大聖孔子ナリ、此皆孟子ノ所謂性ノマヽニシテ、上下天地ト流ヲ同ス、
新字:答、厚キ志シ過分ノ至ナリ、先今日教ヲナス志シヲ語ン、孟子曰、人之有道也、飽食煖衣、逸居而無教、則近於禽獣、聖人有憂之、使契為司徒、教以人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信、此五ノ者ヲ能スルヲ学問ノ功トス、コレニテ古人ノ学ト云者ヲ知ルベシ、論語学而ノ篇ニモ、大抵皆本ヲ務コトヲ多セリ、人倫ノ大原ハ天ニ出テ、仁義礼智ノ良心ヨリナス、孟子又曰、学問之道無他、求其放心而已矣、此心ヲ知テ後ニ、聖人ノ行ヲ見テ法ヲ取ベシ、君ノ道ヲ尽玉フハ堯ニアリ、孝ノ道ヲ尽玉フハ舜ニアリ、臣ノ道ヲ尽玉フハ周公ニアリ、学問ノ道ヲ尽玉フハ大聖孔子ナリ、此皆孟子ノ所謂性ノマヽニシテ、上下天地ト流ヲ同ス、
書き下し
答ふ、厚き志し過分の至りなり。先づ今日教へをなす志しを語らん。孟子曰く、人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教へ無ければ、則ち禽獣に近し。聖人之を憂ふること有り、契をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り、と。此の五つの者を能くするを学問の功とす。これにて古人の学と云ふ者を知るべし。論語学而の篇にも、大抵皆本を務むることを多くせり。人倫の大原は天に出でて、仁義礼智の良心よりなす。孟子又曰く、学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ、と。此の心を知りて後に、聖人の行ひを見て法を取るべし。君の道を尽くし玉ふは堯にあり、孝の道を尽くし玉ふは舜にあり、臣の道を尽くし玉ふは周公にあり、学問の道を尽くし玉ふは大聖孔子なり。此れ皆孟子の所謂性のままにして、上下天地と流れを同じくす。
現代語訳
梅岩は答えました。「厚いお志、まことにありがたいことです。まず、私が今日教えを説いている志をお話ししましょう。孟子は『人には道があるが、腹いっぱい食べ、暖かく着て、安楽に暮らしながら教えがなければ、鳥や獣に近くなる。聖人はこれを憂えて、契を司徒に任じ、人の倫理を教えさせた。父子には親しみ、君臣には義、夫婦には区別、長幼には序列、朋友には信がある』と言いました。この五つをよく行えることを学問の成果とします。これで昔の人の学問とは何かが分かるでしょう。論語の学而篇でも、たいていは根本に努めることを多く説いています。人の倫理の大もとは天から出て、仁義礼智の良心から行われるものです。孟子はまた『学問の道はほかでもない、見失った心を求めるだけだ』と言いました。この心を知ったうえで、聖人の行いを見て手本とすべきです。君の道を尽くしたのは堯、孝の道を尽くしたのは舜、臣の道を尽くしたのは周公、学問の道を尽くしたのは大聖孔子です。これはみな孟子の言う性のままであって、天地の上下と流れを同じくしているのです。」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段多しと雖も亦奚を以て為さん、と。専対するは心なり。詩三百を誦するは文なり。和漢ともに小事を見て、大事を見る者少なし。陋しいかな文学に伐る。文芸も道の助けとなれば、舎つることにはあらず。愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。只恥づべきは、何方へ一簡の饋るとも、文字に於いて誤ることぞ多かるべし。見る人これを用捨有らんことを願ふ。
-
『洗心洞箚記』卷下・第百條小程子曰く、学なる者は、人をして内に求めしむるなり。内に求めずして外に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか外と謂ふ、文を以て主と為す者、是れなり。学なる者は、人をして本に求めしむるなり。本に求めずして末に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか末と謂ふ、詳略を考へ、同異を採る者、是れなり。是の二者は、皆身に益無し、君子は学ばず、と。程子の此等の説は、陽明先生の精一の学と異なること無し。学者宜しく心を平らかにして以て之を見るべきなり。
-
『翁問答』下卷之本体充問曰、世俗のとりさたに、学問は物よみ坊主衆あるひは出家などのわざにして、士のしわざにあらず、学問すぎたる人はぬるくて武用の役に立がたしなど云て、士のうちに学問する人あれば却てそしりぬ、箇様のあやまりは何れの迷ひよりおこりたる事にておはしまし候や。師の曰、それは贋の学問はかり時めきて風俗あしく、衆生の心汚濁にそまりて、書物をよむばかりを学問と思ふより迷ひたる評判なり、それ学問は心のけがれを清め身のおこなひをよくするを本実とす、
-
『翁問答』下卷之本体充問曰、正真の学問は書物を読まずしてもなるものなりと承候へば、おほへにくき書物をよみ講釈を聞申ことはむづかしきに、いらぬ事かと存候。師の曰、大むかしの文字なき代には書物なきによつて、只聖人の言行を手本として学問をつとめたり、伏犠易書をつくり給ひ、文字はじまりてのちは、書物を読みその本意を講習し、わか心のかゞみとして学問をつとむるなり、
-
『都鄙問答』卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段答ふ、いかにも書物を読むことにて候。然れども書物を読みて、書の心を知らざれば、学問とはいはず。聖人の書は、自ら心を含め玉ふ。其心を知るを学問と云ふ。然るに文字ばかりを知るは、一芸なるゆへに、文字芸者と云ふ。曰く、書を読むは同じくして、汝今分けて二つとするは、証あることに候や。
-
『翁問答』序志学の年より、心に守り身に行べき、道理を求め得まく思ひ立て、禅門教門の釈教を、年経て学ふと雖、其言詖遁にして其道偏僻なり、其法亦人倫日用の受用に便りあらざる故に儒門に入て四書五経の真教を受て、切磋琢磨を励ませ共、三隅を反せざる程の下愚なれば、開悟の自得難及、既に道に立可き年をも空しく打過ぬ、愚者の誤る習ひなれば性の拙き事を忘て、却て師範の其人に非ざるかと疑ひ、明哲の先学もがなと寤寐に忘れず、