洗心洞箚記 / 卷下・第百二十七條
能觀之則事事言言、都歸乎心矣、而不與陸子說分毫異也、然陸子則其言常峻而已、如朱子則溫而嚴、是性之所使然、而非人力所及也、而朱陸異同之爭、起乎其門人之勝心、斯義也徐存齋黃石齋、周巢軒施愚山諸先生辨白而盡矣、吾亦何贅、只吾輩不治旦暮展轉利欲中、不知覺之瞽聾、而雖自謂學朱子、朱子之靈、決不受焉、雖自謂學陸子、陸子之靈、亦決不受焉、然則目之謂俗學之外無名號、吁、可愧、又可悲、
新字:能観之則事事言言、都帰乎心矣、而不与陸子説分毫異也、然陸子則其言常峻而已、如朱子則温而厳、是性之所使然、而非人力所及也、而朱陸異同之争、起乎其門人之勝心、斯義也徐存斎黄石斎、周巣軒施愚山諸先生弁白而尽矣、吾亦何贅、只吾輩不治旦暮展転利欲中、不知覚之瞽聾、而雖自謂学朱子、朱子之霊、決不受焉、雖自謂学陸子、陸子之霊、亦決不受焉、然則目之謂俗学之外無名号、吁、可愧、又可悲、
書き下し
能く之を観れば則ち事事言言、都て心に帰す。而して陸子の説と分毫も異ならざるなり。然れども陸子は則ち其の言常に峻なるのみ。朱子の如きは則ち温にして厳なり。是れ性の然らしむる所にして、人力の及ぶ所に非ざるなり。而して朱陸異同の争ひは、其の門人の勝心より起こる。斯の義や徐存斎黄石斎、周巣軒施愚山の諸先生弁白して尽くせり。吾も亦た何ぞ贅せん。只だ吾が輩旦暮利欲の中に展転して、知覚せざるの瞽聾を治めずして、自ら朱子を学ぶと謂ふと雖も、朱子の霊、決して受けず。自ら陸子を学ぶと謂ふと雖も、陸子の霊も、亦た決して受けず。然らば則ち之を目して俗学と謂ふの外名号無し。吁、愧づべし、又悲しむべし。
現代語訳
よくこれを観れば、一つ一つの事も言葉も、すべて心に帰する。そして陸子(陸九淵)の説と少しも違わない。ただ陸子はその言葉がいつも鋭く厳しいだけであり、朱子は温かくて厳しい。これは生まれつきの性がそうさせるのであって、人の力の及ぶところではない。そして朱陸の異同をめぐる争いは、その門人たちの人に勝とうとする心から起こったのである。この意味は、徐存斎(徐階)・黄石斎(黄道周)・周巣軒・施愚山(施閏章)の諸先生が明らかに論じ尽くしている。私が何を付け加えようか。ただ私たちが、朝から晩まで利欲の中を転々として気づかない、目も耳もふさがった状態を治めないまま、自分は朱子を学んでいると言っても、朱子の霊は決して受け容れない。自分は陸子を学んでいると言っても、陸子の霊もまた決して受け容れない。そうであれば、これを俗学と呼ぶほかに名はない。ああ、恥ずべきことであり、また悲しむべきことである。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十二條陸子曰く、学者は須らく是れ田地を打畳して浄潔ならしめ、然る後に他をして奮発植立せしむべし。若し田地浄潔ならずんば、則ち奮発植立し得ず。古人の学を為すは即ち書を読む、然る後に学を為すこと見るべし。然れども田地浄潔ならずんば、亦書を読み得ず。若し書を読まば則ち是れ寇に兵を仮し、盗に糧を資するなり、と。又曰く、書を読むには固より文義を暁らざるべからず。然れども只だ文義を暁るを以て是と為さば、只だ是れ児童の学なり。須らく意旨の在る所を看るべし、と。
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