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洗心洞箚記 / 卷下・第百二十六條

朱子曰、語斯道之本體、則謂之太極、語太極之流行、則謂之道、雖有二名、初無兩體、那箇滿山靑黃碧綠、無非是這太極、是何等快治之談也耶、人若知那箇滿山靑黃碧綠爲太極之旨、則出門放觀亦道也、何但閉戶周旋蠹魚之間、而學道云乎哉、

新字:朱子曰、語斯道之本体、則謂之太極、語太極之流行、則謂之道、雖有二名、初無両体、那箇満山青黄碧緑、無非是這太極、是何等快治之談也耶、人若知那箇満山青黄碧緑為太極之旨、則出門放観亦道也、何但閉戸周旋蠹魚之間、而学道云乎哉、

書き下し

朱子曰く、斯道の本体を語れば、則ち之を太極と謂ひ、太極の流行を語れば、則ち之を道と謂ふ。二名有りと雖も、初めより両体無し。那箇の満山の青黄碧緑、是れ這の太極に非ざる無し、と。是れ何等の快治の談ぞや。人若し那箇の満山の青黄碧緑を太極と為すの旨を知れば、則ち門を出でて放観するも亦た道なり。何ぞ但だ戸を閉ぢて蠹魚の間に周旋して、道を学ぶと云はんや。

現代語訳

朱子は言う。「この道の本体を語れば、これを太極と言い、太極が流れ行くことを語れば、これを道と言う。二つの名があっても、もともと二つの本体があるわけではない。あの山いっぱいの青や黄や碧や緑は、すべてこの太極でないものはない」。なんと痛快な話であろうか。人がもし、あの山いっぱいの青黄碧緑が太極であるという趣旨を知れば、門を出てのびのびと眺めることもまた道である。どうして戸を閉じて紙魚(しみ)の間をうろうろするだけで、道を学んでいると言えようか。

解説

道の本体が太極、太極の流行が道であって二つの本体はなく、山いっぱいの青黄碧緑がみな太極だという朱子の言葉を、中斎は痛快な談と喜ぶ。そこから、門を出て自然を眺めることも道であり、戸を閉ざして紙魚の間で書物をいじるだけが学問ではないと説く。朱子の言葉を借りて書物偏重を戒めるのは、箚記に一貫する論法である。現代でも、机上の資料だけで考えず、現場に出て人や物を見ること自体が学びになる。季節の色に道を見る感性は、忙しい日々にこそ取り戻したいものである。

この章句が説くこと

太極道学問自然朱子心

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