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洗心洞箚記 / 卷下・第百二十五條

朱子曰、宇宙之間、一理而已、天得之而爲天、地得之而爲地、而凡生於天地之間者、又各得之以爲性、其張之爲三綱、其紀之爲五常、蓋皆此理之流行、無所適而不在、若其消息盈虛循環不已、則自未始有物之前、以至人消物盡之後、終則復始、始復有終、又未嘗有頃刻之或停也、謹案、先儒說天地人物之終始、莫明晰於朱子此章、而又可見有人物消盡之期、而太虛之靈氣未嘗有一息也、張子曰、鬼神常不死、亦是意也、程子曰、堯舜知他幾千年、其心至今在、亦只是意也、

新字:朱子曰、宇宙之間、一理而已、天得之而為天、地得之而為地、而凡生於天地之間者、又各得之以為性、其張之為三綱、其紀之為五常、蓋皆此理之流行、無所適而不在、若其消息盈虚循環不已、則自未始有物之前、以至人消物尽之後、終則復始、始復有終、又未嘗有頃刻之或停也、謹案、先儒説天地人物之終始、莫明晰於朱子此章、而又可見有人物消尽之期、而太虚之霊気未嘗有一息也、張子曰、鬼神常不死、亦是意也、程子曰、堯舜知他幾千年、其心至今在、亦只是意也、

書き下し

朱子曰く、宇宙の間は、一理のみ。天之を得て天と為り、地之を得て地と為る。而して凡そ天地の間に生ずる者も、又各々之を得て以て性と為す。其の張るは三綱と為り、其の紀すは五常と為る。蓋し皆此の理の流行にして、適く所として在らざる無し。若し其の消息盈虚循環して已まざれば、則ち未だ始めより物有らざるの前より、以て人消え物尽くるの後に至るまで、終はれば則ち復た始まり、始まれば復た終はり有り、又未だ嘗て頃刻の或いは停まること有らざるなり、と。謹んで案ずるに、先儒の天地人物の終始を説くこと、朱子の此の章より明晰なるは莫し。而して又人物消尽の期有りて、太虚の霊気未だ嘗て一息も有らざるを見るべし。張子曰く、鬼神は常に死せず、と。亦た是の意なり。程子曰く、堯舜は他幾千年なるを知る、其の心今に至るまで在り、と。亦た只だ是の意なり。

現代語訳

朱子は言う。「宇宙の間はただ一つの理である。天はこれを得て天となり、地はこれを得て地となる。そして天地の間に生まれるものも、またそれぞれこれを得て性とする。それが張り広げられて三綱(君臣・父子・夫婦の道)となり、整えられて五常(仁義礼智信)となる。思うにみなこの理の流れ行くところであり、どこにでも在る。その消長と満ち欠けが循環してやまないことについて言えば、まだ物がはじめてもない以前から、人が消え物が尽きた後に至るまで、終われば再び始まり、始まればまた終わりがあり、片時も止まったことがない」。謹んで考えると、先儒で天地・人・物の終わりと始まりを説いたもので、朱子のこの章ほど明晰なものはない。そしてまた、人や物が消え尽きる時期があっても、太虚の霊気は一息たりとも絶えたことがないことがわかる。張子(張載)が「鬼神はつねに死なない」と言ったのも、この意味である。程子が「堯舜からどれほど幾千年たったか。その心は今に至るまで在る」と言ったのも、ただこの意味である。

解説

宇宙は一つの理であり、天地も人も物もそれを得て成り立ち、消長盈虚が始めも終わりもなく循環するという朱子の説を引く条である。中斎はこれを天地人物の終始を説いて最も明晰なものと評し、人や物が尽きる時があっても太虚の霊気は一息も絶えないと読む。張載の「鬼神は常に死せず」や程子の「堯舜の心は今に在る」もその意だという。生死を超えて心が残るという考えは、中斎の生死観の根にある。現代でいえば、人は去っても、その人の誠は組織や後進のうちに生き続けるということになる。

この章句が説くこと

太虚理生死三綱五常朱子

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