洗心洞箚記 / 卷下・第百二十四條
朱子曰、只是一氣、陽消處便是陰、不是陽退了、又別有箇陰生、朱子此陰陽消息之說、從程張來、而天地一氣而已矣、雖太極而駕之以運行賦與焉、卽是二而一、知之則生死特其聚散進退耳、
新字:朱子曰、只是一気、陽消処便是陰、不是陽退了、又別有箇陰生、朱子此陰陽消息之説、従程張来、而天地一気而已矣、雖太極而駕之以運行賦与焉、即是二而一、知之則生死特其聚散進退耳、
書き下し
朱子曰く、只だ是れ一気なり。陽の消する処便ち是れ陰なり。是れ陽退き了りて、又別に箇の陰の生ずる有るにあらず、と。朱子の此の陰陽消息の説は、程張より来る。而して天地は一気のみ。太極と雖も之に駕するに運行賦与を以てす、即ち是れ二にして一なり。之を知れば則ち生死は特だ其の聚散進退のみ。
現代語訳
朱子は言う。「ただ一つの気である。陽が消えるところが、そのまま陰である。陽が退いてしまってから、また別に陰が生じるのではない」。朱子のこの陰陽消長の説は、程子と張子(張載)から来ている。天地はただ一つの気にすぎない。太極であっても、この気に乗って運行し、物に授けるのであり、つまり二つであって一つである。これを知れば、生死はただその集散と進退にすぎない。
解説
陽と陰は別々のものではなく、一つの気の陽が消える所がそのまま陰だという朱子の陰陽消息説を引く短い条である。中斎はこれが程子と張載の説に由来すると見て、天地は一気であり、太極もその気に乗って運行するから理と気は二にして一だとまとめる。そこから生死もまた気の集散進退にすぎないと結ぶのが中斎らしい。現代に移せば、好調と不調、成長と停滞を別の出来事と見るのではなく、一つの流れの満ち引きとして捉えることで、どちらにも過剰に揺れない構えが得られる。
この章句が説くこと
気陰陽太極生死聚散朱子
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