導師導古典を学びたいすべての人に

童子問 / 卷中

問。理字何故不足爲生生化化之原乎。曰。理本死字。在物而不能宰物。在生物有生物之理。死物有死物之理。人則有人之理。物則有物之理。然一元之氣爲之本。而理則在于氣之後。故理不足以爲萬化之樞紐也。萬物本乎五行。五行本乎陰陽。再推而至於陰陽之所以然。則不能不歸之於理。既歸于理。則自不能不陷于虛無。所謂萬法歸一。一歸何所。是也。此常識之所以必至此。而與聖人自相違也。惟聖人能識天地之一大活物。而不可以理字盡之。故彖贊之曰。大哉乾元。至哉坤元。至矣盡矣。若知天地眞活物。許汝卽身卽伏犧。

新字:問。理字何故不足為生生化化之原乎。曰。理本死字。在物而不能宰物。在生物有生物之理。死物有死物之理。人則有人之理。物則有物之理。然一元之気為之本。而理則在于気之後。故理不足以為万化之枢紐也。万物本乎五行。五行本乎陰陽。再推而至於陰陽之所以然。則不能不帰之於理。既帰于理。則自不能不陥于虚無。所謂万法帰一。一帰何所。是也。此常識之所以必至此。而与聖人自相違也。惟聖人能識天地之一大活物。而不可以理字尽之。故彖賛之曰。大哉乾元。至哉坤元。至矣尽矣。若知天地真活物。許汝即身即伏犠。

書き下し

問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。

現代語訳

問う。理という字は、どうして生み生み変化し続けるものの根源とするに足りないのか。答えていう。理とはもともと死んだ字である。物のうちにあっても物を主宰することはできない。生きた物には生きた物の理があり、死んだ物には死んだ物の理がある。人には人の理があり、物には物の理がある。しかし一元の気がその本となっていて、理は気の後にある。だから理は万物の変化の要とするには足りないのである。万物は五行に基づき、五行は陰陽に基づく。さらに推し進めて陰陽がそうである所以にまで至れば、それを理に帰さざるをえない。理に帰してしまえば、おのずと虚無に陥らざるをえない。いわゆる「万法は一に帰す、一はどこに帰すのか」というのがこれである。これが世の常の知識が必ずここに至る理由であって、聖人とはおのずと食い違うのである。ただ聖人だけが、天地は一つの大いなる生きものであって、理の字で尽くすことはできないと知っていた。だから彖伝はこれを讃えて「大いなるかな乾元、至れるかな坤元」と言った。至れり尽くせりである。もし天地が真に生きたものであることを知るならば、あなたがその身のままで伏羲(易を作った聖王)であると認めよう。

解説

理がなぜ万物の生成の根源たりえないかを、仁斎は「理は本死字」の一言で示す。理は物に宿っても物を主宰できず、根本にあるのは一元の気で、理はその後にある。陰陽のさらに奥に理を立てて遡れば、最後は虚無に陥り、禅の「万法一に帰す、一何れの所にか帰す」と同じになってしまう。天地の活物たることを知るなら、その身のまま伏羲だという結びには、仁斎の確信の強さがにじむ。整った理屈ほど現実の動きを捉えそこねることがある。仕事でも、規則や理論より、生きて変化する現場そのものを根本に置く見方が求められる。

この章句が説くこと

理気活物天地易生成

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る