洗心洞箚記 / 卷下・第百十六條
楊龜山先生曰、知萬物皆備於我、則數數雖多、反而求之於吾身可也、故曰、盡己之性、則能盡人物之性、以己與人物無二故也、先生謂求之於吾身則道非外求可知矣、程門心傳之工夫、本簡易皆如此、而後人以爲類佛、却爲門外之工夫、非惑乎、
新字:楊亀山先生曰、知万物皆備於我、則数数雖多、反而求之於吾身可也、故曰、尽己之性、則能尽人物之性、以己与人物無二故也、先生謂求之於吾身則道非外求可知矣、程門心伝之工夫、本簡易皆如此、而後人以為類仏、却為門外之工夫、非惑乎、
書き下し
楊亀山先生曰く、万物皆我に備はるを知れば、則ち数数多しと雖も、反りて之を吾が身に求めて可なり。故に曰く、己の性を尽くせば、則ち能く人物の性を尽くす、と。己と人物と二無きを以ての故なり、と。先生の之を吾が身に求むと謂へば則ち道の外に求めざること知るべし。程門心伝の工夫、本と簡易なること皆此くの如し。而るに後人以て仏に類すと為し、却って門外の工夫を為す、惑ひに非ずや。
現代語訳
楊亀山先生(楊時)は言う。「万物はみな我に備わっていると知れば、物事の数がどれほど多くても、立ち返って自分の身に求めればよい。だから『自分の性を尽くせば、人や物の性を尽くすことができる』(『中庸』)と言う。自分と人や物とが二つでないからである」。先生が「自分の身に求める」と言うのだから、道を外に求めないことがわかる。程門で心から心へ伝えた工夫は、もともと簡易であることがみなこのようである。それなのに後の人はこれを仏教に似ていると言い、かえって門外の工夫をしている。惑いではないか。
解説
楊時の言葉で、孟子の「万物皆我に備はる」と『中庸』の「己の性を尽くせば人物の性を尽くす」を結びつけ、物事がどれほど多くても自分の身に返って求めればよいと説く。中斎は、程門の心伝の工夫はもともと簡易であったのに、後の人がそれを仏教に似ていると退け、外にばかり求める門外の工夫に走っていると嘆く。陽明学を禅とする非難への反論でもある。現代の仕事でも、問題の数が多いときほど外の手法探しに走りがちだが、まず自分の在り方に返ることが要だと気づかせる。
この章句が説くこと
性心修己万物一体簡易楊時
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