洗心洞箚記 / 卷下・第百十四條
謝上蔡先生曰、他人安能陶鑄我、我自有命、若信不及、風吹草動、便生恐懼憂喜、又曰、生本無可好、人之所以欲生者、以欲也、死本無可惡、人之所以惡死者、亦以其欲也、生求稱其欲、死懼失其欲、憧憧天地之間、無不以欲爲事、而心學不傳矣、先生程門之高第、而與龜山先生伯仲之間也、自靜坐之工、心得一死生之超脫焉、可謂豪傑之士矣、
新字:謝上蔡先生曰、他人安能陶鋳我、我自有命、若信不及、風吹草動、便生恐懼憂喜、又曰、生本無可好、人之所以欲生者、以欲也、死本無可悪、人之所以悪死者、亦以其欲也、生求称其欲、死懼失其欲、憧憧天地之間、無不以欲為事、而心学不伝矣、先生程門之高第、而与亀山先生伯仲之間也、自静坐之工、心得一死生之超脱焉、可謂豪傑之士矣、
書き下し
謝上蔡先生曰く、他人安んぞ能く我を陶鋳せんや。我自ら命有り。若し信じ及ばざれば、風吹き草動くに、便ち恐懼憂喜を生ず、と。又曰く、生は本より好むべき無し、人の生を欲する所以の者は、欲を以てなり。死は本より悪むべき無し、人の死を悪む所以の者も、亦た其の欲を以てなり。生きては其の欲に称はんことを求め、死しては其の欲を失はんことを懼る。憧憧として天地の間、欲を以て事と為さざる無くして、心学伝はらず、と。先生は程門の高第にして、亀山先生と伯仲の間なり。静坐の工よりして、心に一死生の超脱を得たり。豪傑の士と謂ふべし。
現代語訳
謝上蔡先生(謝良佐)は言う。「他人がどうして私を鋳型にはめて作り変えられようか。私には自ずから命がある。もしこれを信じきれなければ、風が吹き草が動くたびに、恐れや憂いや喜びが起こる」。また言う。「生はもともと好むべきものではない。人が生を欲するのは欲があるからだ。死はもともと憎むべきものではない。人が死を憎むのも、やはり欲があるからだ。生きているうちは欲にかなうことを求め、死ぬときは欲を失うことを恐れる。天地の間をせわしなく行き来して、欲を事としない者はなく、そのために心学は伝わらない」。先生は程門の高弟で、亀山先生(楊時)と肩を並べる人である。静坐の工夫によって、心に生死を一つにする超脱を得た。豪傑の士と言うべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第九十八條大程子曰く、性を知れば即ち生死の説に明らかなり、と。又曰く、心に感通有りと説けば、更に甚の生死古今の別をか説かん、と。又曰く、死生存亡、従りて来る所を知れば、胸中瑩然として疑ひ無し、止だ此の理のみ。死の事は、即ち生是れなり、更に別理無し、と。又曰く、語黙は猶ほ昼夜のごとく、昼夜は猶ほ生死のごとく、生死は猶ほ古今のごとし、と。此れ皆程子の心を尽くし性を尽くして、生死を理会する所以の処なり。吾嘗て謂ふ、未だ息を出さずして内に在るは、即ち生なり。既に息を吹きて外に出づるは、即ち死なり。身に就きて之を視れば、則ち生死何の知り難きことか之れ有らん。此の悟は本と程子の教誨を承領し来りて以て得たる者なり。
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言志四録・南洲手抄生物は皆死を畏る。人は其れ霊なり、当に死を畏るるの中より死を畏れざるの理を揀び出すべし。吾れ思ふ、我が身は天物なり。死生の権は天に在り、当に之を順受すべし。我れの生るるや自然にして生る、生るる時未だ嘗て喜ぶことを知らず。則ち我の死するや応に亦自然にして死し、死する時未だ嘗て悲むことを知らざるべし。天之を生みて、天之を死す、一に天に聴さんのみ、吾れ何ぞ畏れん。吾が性は即ち天なり、躯殻は則ち天を蔵むるの室なり。精気の物と為るや、天此の室に寓す。遊魂の変を為すや、天此の室を離る。死の後は即ち生の前なり、生の前は即ち死の後なり。而して吾が性の性たる所以は、恒に死生の外に在り、吾れ何ぞ畏れん。夫れ昼夜は一理なり、幽明は一理なり。始めを原ねて終りに反らば、死生の理を知る、何ぞ其の易簡にして明白なるや。吾人は当に此の理を以て自省すべし。
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『洗心洞箚記』卷下・第百十七條楊亀山先生曰く、天下を通じて一気のみ。合して生じ、尽きて死す。凡そ心知血気有るの類、物として然らざる無し。合するの来るに非ず、尽くるの往くに非ざるを知れば、則ち其の生や浮漚、其の死や氷釈、昼夜の常の如く、悦戚するに足る者無し、と。先生の此の悟りは、全く正蒙の太虚一気聚散の説より来る。易に所謂始めを原ね終はりに反る、故に死生の説を知る者なり。故に其の終身道を論ずるに、畏避因循の態無し。程門の上足高第、斯の人に非ずして誰ぞや。
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『洗心洞箚記』卷上・第百六十二條常人は天地を視て無窮と為し、吾を視て暫と為す。故に欲を血気壮んなる時に逞しくするを以て務と為すのみ。而して聖賢は則ち独り天地を視て無窮と為すのみならず、吾を視ても亦以て天地と為す。故に身の死を恨みずして心の死を恨む。心死せずんば、則ち天地と無窮を争ふ。是の故に一日を以て百年と為し、心凜乎として深淵に臨むが如く、須臾も放失せざるなり。故に又嘗て物を以て志を移さず、欲を以て寿を引かず、人欲を去り天理を存せんことを要するのみ。彼は則ち天理を去り人欲を存するなり。天理を去り人欲を存するは、是れ乃ち常人の期する所なれば、則ち人欲を去り天理を存するの教、安んぞ其の耳と心とに逆はざるを得んや。彼耳と心とに逆ふを以て、自ら之を揣れば、則ち聖賢の教を以て、必ず人情を矯むると為す。人情を矯むると為せば、則ち其の勢、吾を教ふるに曲と偽とを以てすと謂はざるを得ず。此れ乃ち曲学偽学の名の由りて起こる所なるか。
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伝習録・黄省曾録「殀寿貳(うたが)わず」を問う。先生曰く、「学問の功夫、一切の声利・嗜好に於て倶に能く脱落し尽くすに殆(ちか)きも、尚お一種の生死の念頭、毫髪も掛帯する有らば、便ち全体に於て未だ融釈せざる処有り。人の生死の念頭に於けるは、本と生身命根の上より帯び来たる。故に去り易からず。若し此の処に於て見得て破り、透り得て過ぐれば、此の心の全体は方に是れ流行して礙り無く、方に是れ性を尽くし命に至るの学なり」と。
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『洗心洞箚記』卷上・第百五十四條一門人天地絪縕の状を問ふ。曰く、「近く諸を身に取れば則ち知り易し」と。曰く、「闇くして知り難し」と。「今爾の満口の息気即ち絪縕なり。知り難しとは、何ぞや」と。内に虚なる者は、誤りて水に堕つれば、則ち皆浮かびて沈まず。此れ特に虫豸禽獣のみに非ず、人と雖も亦然り。然れども人は則ち沈みて浮かばずして死す。十人にして十人、百人にして百人、曾て一の活くる者有ること無きは、何ぞや。此れ他無し、其の水に堕つるや、即ち生を欲し死を悪むの念彼より甚だしきを起こし、而して其の念既に方寸に塞がる、故に方寸実して虚に非ず。況や手を振り脚を動かし、咽を破りて叫号するをや。沈みて浮かばずして死するは、此を以てなり。如し其の念と其の動叫と無くんば、則ち必ず浮かびて沈まずして活きん。是れ天理なり。又奚ぞ異ならんや。或ひと曰く、「裸裎ならば則ち子の言の如く或は然る者有らん。衣裳して堕つれば、則ち如何」と。曰く、「心誠敬を存して太虚に帰するの人は、則ち数万仞の海底と雖も、徐ろに其の帯を解き、其の衣裳を脱ぐこと、是れ難きこと無し。嗚呼、此れ独り水に堕つる時の術のみならんや」と。
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