洗心洞箚記 / 卷下・第百十三條
司馬溫公曰、學者、所以治心也、學雖多、而心不治、則安以學爲、又曰、小人治迹、君子治心、夫治心之義、亦大學之第一義也、程夫子有云、本朝醇而不雜者、以公爲首、朱子曰、溫公可謂知仁勇、二大儒品評公如此、亦只不出于其治心二字焉耳、而公能治心、故愼獨、愼獨故不欺而意誠也、以此內齊家、外治國天下、乃有實功矣、豈如夫遺體事用之比哉、且後儒動以心學爲禪、然則公亦禪乎、朱子小學載公闢佛敎之說、垂敎萬世、則非禪坐可知矣、吾推究之、以心學爲禪者、公所謂治迹者之所發也、公早旣察之、故有斯說、非耶、
新字:司馬温公曰、学者、所以治心也、学雖多、而心不治、則安以学為、又曰、小人治迹、君子治心、夫治心之義、亦大学之第一義也、程夫子有云、本朝醇而不雑者、以公為首、朱子曰、温公可謂知仁勇、二大儒品評公如此、亦只不出于其治心二字焉耳、而公能治心、故慎独、慎独故不欺而意誠也、以此内斉家、外治国天下、乃有実功矣、豈如夫遺体事用之比哉、且後儒動以心学為禅、然則公亦禅乎、朱子小学載公闢仏教之説、垂教万世、則非禅坐可知矣、吾推究之、以心学為禅者、公所謂治迹者之所発也、公早既察之、故有斯説、非耶、
書き下し
司馬温公曰く、学なる者は、心を治むる所以なり。学多しと雖も、心治まらざれば、則ち安んぞ学を以て為さん、と。又曰く、小人は迹を治め、君子は心を治む、と。夫れ治心の義は、亦た大学の第一義なり。程夫子云ふ有り、本朝醇にして雑ならざる者は、公を以て首と為す、と。朱子曰く、温公は知仁勇と謂ふべし、と。二大儒の公を品評すること此くの如く、亦た只だ其の治心の二字を出でざるのみ。而して公能く心を治む、故に独りを慎む。独りを慎む、故に欺かずして意誠なり。此を以て内は家を斉へ、外は国天下を治むれば、乃ち実功有り。豈に夫の体を遺れて用を事とするの比の如くならんや。且つ後儒動もすれば心学を以て禅と為す。然らば則ち公も亦た禅なるか。朱子の小学に公の仏教を闢くの説を載せて、教へを万世に垂るれば、則ち禅坐に非ざること知るべし。吾推して之を究むるに、心学を以て禅と為す者は、公の所謂迹を治むる者の発する所なり。公早く既に之を察す、故に斯の説有り、非なるか。
現代語訳
司馬温公(司馬光)は言う。「学とは心を治めるためのものである。学がいくら多くても、心が治まらなければ、学を何に使うのか」。また言う。「小人は外に現れた跡を治め、君子は心を治める」。そもそも心を治めるという意味は、『大学』の第一義でもある。程夫子(程頤)は「本朝(宋)で純粋で雑じりけのない者は、公を筆頭とする」と言い、朱子は「温公は知・仁・勇を備えた人と言うべきだ」と言った。二人の大儒の公に対する品評はこのようであるが、それもただ「治心」の二字を出ない。公はよく心を治めたから、独りを慎んだ。独りを慎んだから、欺かず意が誠であった。これによって内は家を整え、外は国や天下を治めたので、実のある功績があった。どうして、本体を忘れて働きばかりに従事する者と比べられようか。そのうえ後の儒者は、ややもすると心学を禅だと言う。それなら公もまた禅なのか。朱子の『小学』は公の仏教排斥の説を載せて万世に教えを垂れているのだから、禅の坐禅でないことは明らかである。私が推し究めると、心学を禅だと言う者は、公のいう「跡を治める者」から出てくるのである。公はとうにそれを見抜いていたから、この説があるのではないか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『初学訓』巻之三一学問する人は、まづ、誠の心を本として、善を好みてつねに勤め行ひ、悪を嫌ひてつとめ去るべし。学問の道、善を行ひ悪を去るをむねとす。学んで書を読めども、善を好まず行はざれば用なし。わが身の過を改め、悪を去りて善を行ひ、殊に、孝弟を本として、人倫を憐み、其分に応じて、人に施し救ひ、其位に随ひて、人を敬ふべし。これ愛敬の二は、およそ人にまじはる心法なり。
-
『洗心洞箚記』卷下・第九十九條小程子曰く、学者は以て誠ならざるべからず。誠ならざれば以て善を為す無く、誠ならざれば以て君子と為る無し。学を脩むるに誠を以てせざれば則ち学雑なり、事を為すに誠を以てせざれば則ち事敗る。自ら謀るに誠を以てせざれば、則ち是れ心を欺きて自ら其の志を棄つるなり。人と与にするに誠を以てせざれば、則ち是れ其の徳を喪ひて、人の怨みを増すなり。今小道異端も、亦た必ず誠にして後に得。而るを況んや君子と為らんと欲する者をや、と。是に由りて之を観れば、則ち学問の道は、一誠のみ。
-
『弁名』誠聖人の道に於ける、皆思はずして得、勉めずして中る。故に至誠を以て之を称す。「之を誠にする」とは、先王の道を学び、久しくして之と化し、習慣天性の如くなれば、則ち其の初め知らず能はざる所の者も、今は皆思はずして得、勉めずして中るを謂ふ。是れ学習の力に出づ。故に「之を誠にするは人の道なり」と曰ふ。道は外に在り、性は我に在り。習慣天性の若くなれば、道と性と合して一と為る。故に「外内を合するの道なり」と曰ふ。故に其の大要は学びて以て徳を成すに在り。徳を成せば則ち能く誠なり。是れ中庸の誠を言ふの大略なり。大学の「誠意」も亦た爾り。物格れば則ち知至りて自然に意誠なるを謂ふなり。其の功を用ふるは全く格物に在りて、知至以下は皆其の効のみ。文言の所謂「辞を修め其の誠を立つ」も、亦た礼楽を学びて以て徳を成すを謂ふのみ。
-
『童子問』卷下問ふ、先生常に孔孟の旨をして復た天下に明らかならしめんと欲し、言を建て書を著し、千辛万苦を犯して敢へて為す。而るに今之を信ずる者有り、信ぜざる者有り、或いは甚だ議摘する者有り。奈何ぞ其をして尽く信ぜしむること能はざる、と。曰く、学者は当に下問を恥ぢず、己を舎てて人に従ふを以て志と為すべし。苟も此くの如きの志有らば、則ち天下何の善か之に如かん。予や第孔孟の旨をして復た世に明らかならしめんと欲して、其の信不信を較べず。況んや其の言の必ず行はれんことを欲せんや。苟も孔孟の直指を闡明して、明らかに以て我に告ぐる者有らば、是れ吾の大いに聞かんと欲する所なり。吾将に鞭を執りて以て之に従はんとす。豈に其の我を譏るを尤めんや。孔子曰く、丘や幸ひなり、苟も過ち有れば、人必ず之を知る、と。凡そ人の我を信ぜず、我に服せざるは、皆吾が誠の未だ孚ならざるなり。惟当に自ら修省すべきのみ。苟も人有りて至当の説を以て之に告げんに、吾我が説を守りて之を拒まば、是れ自ら善道を絶つなり。是れ自ら吾が身を戕害するなり。予愚なりと雖も、未だ此くの如く人甚だしきに至らず。予門人小子の説と雖も、苟も取るべき者有らば、皆之に従ふ。論語孟子を解するも、皆然り。乃ち門人と商搉し、衆議定まりて、而る後之を書に命ず。若し理に合はざる者有らば、之を卻く。是れ子の識る所なり。若し夫れ私心を以て之を攻め、私説を持して之を難ずるは、是れ吾の聞かんと欲せざる所なり。後世有道の人出でば、必ず吾が言に於て符節を合はするが若くならん。是れ吾の自ら恃む所なり。子其れ諒せよ。
-
『慎思録』巻之六吾が夫子は文行忠信を以て教へと為し、且つ屢忠信を主とすることを言ふ。蓋し学問の道は、文を学びて以て道を明らかにし、力行して以て善を為し、忠信を主として以て誠を立つ。此の三者、一を闕くべからず。蓋し文行に非ずば、則ち理を窮め善を為すこと能はず。忠信に非ずば、則ち文行も亦進益を得ず、皆虚妄なるのみ。蓋し人道は只忠信に在り。忠信ならずば徳を立つるの基無し。故に易に曰く、忠信は徳に進む所以なりと。郷里の常人と雖も、苟も忠信無くば、則ち世に立つべからず。況んや君子の道をや。此の故に君子は之を誠にするを貴しと為す。
-
『童子問』卷下先生の学問の家法を問ふ。曰く、吾に家法無し。論語孟子の正文に就きて理会す。是れ吾が家法のみ。近日札中の一段、為学の法を論じて、甚だ為学の肯綮を得たり。又子の為に之を誦せん。曰く、儒者の学は、最も闇昧を忌む。其の道を論じ経を解するは、須らく是れ明白端的なるべし。白日に十字街頭に在りて事を作し、一毫も人を瞞き得ざるが若くにして方に可なり。切に附会すべからず、牽合すべからず、仮借すべからず、遷就すべからず。尤も回護して以て其の短を掩ふを嫌ひ、又粧点して以て媚悦を取るを戒む。従前の諸儒、動もすれば此の諸病を犯す。惟道を論じ経を解するに害有るのみに非ず、必ず大いに人の心術を壊る。知らざるべからざるなり。又要す、大蒜子を剝きて、銀盤子の内に盛り、潔潔浄浄、渾身透明なるが若くならんことを。要せず、臭物を蓋蔽して諸を器中に蔵し、則ち佗物も亦皆気に触れ類に染まりて、悉く臭腐に就きて、用ふべからざるが若くならんことを。学問の進まず、徳義の修まらざるは、一に皆此に坐す。此れは是れ儒者講学の第一の要訣なり。学者須らく此を以て安身立命の根基と為し、常常体取して、遺忘を容れざるべし。中庸に曰く、善に明らかならざれば、身に誠ならず、と。又曰く、明らかなるより誠なる、之を教へと謂ふ、と。此の一段は、即ち中庸の所謂明の字の謂ひなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る