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洗心洞箚記 / 卷上・第百六十二條

常人視天地爲無窮、視吾爲暫、故以逞欲於血氣壯時爲務而已、而聖賢則不獨視天地爲無窮、視吾亦以爲天地、故不恨身之死而恨心之死矣、心不死、則與天地爭無窮、是故以一日爲百年、心凜乎如臨深淵、不須臾放失也、故又嘗不以物移志、不以欲引壽、要去人欲存天理而已矣、彼則去天理存人欲也、去天理存人欲、是乃常人之所期、則去人欲存天理之敎、安得不逆其耳與心哉、彼以逆耳與心、自揣之、則以聖賢之敎、必爲矯人情、爲矯人情、則其勢不得不謂敎吾曲與僞也、此乃曲學僞學之名、所由起也歟、

新字:常人視天地為無窮、視吾為暫、故以逞欲於血気壮時為務而已、而聖賢則不独視天地為無窮、視吾亦以為天地、故不恨身之死而恨心之死矣、心不死、則与天地争無窮、是故以一日為百年、心凜乎如臨深淵、不須臾放失也、故又嘗不以物移志、不以欲引寿、要去人欲存天理而已矣、彼則去天理存人欲也、去天理存人欲、是乃常人之所期、則去人欲存天理之教、安得不逆其耳与心哉、彼以逆耳与心、自揣之、則以聖賢之教、必為矯人情、為矯人情、則其勢不得不謂教吾曲与偽也、此乃曲学偽学之名、所由起也歟、

書き下し

常人は天地を視て無窮と為し、吾を視て暫と為す。故に欲を血気壮んなる時に逞しくするを以て務と為すのみ。而して聖賢は則ち独り天地を視て無窮と為すのみならず、吾を視ても亦以て天地と為す。故に身の死を恨みずして心の死を恨む。心死せずんば、則ち天地と無窮を争ふ。是の故に一日を以て百年と為し、心凜乎として深淵に臨むが如く、須臾も放失せざるなり。故に又嘗て物を以て志を移さず、欲を以て寿を引かず、人欲を去り天理を存せんことを要するのみ。彼は則ち天理を去り人欲を存するなり。天理を去り人欲を存するは、是れ乃ち常人の期する所なれば、則ち人欲を去り天理を存するの教、安んぞ其の耳と心とに逆はざるを得んや。彼耳と心とに逆ふを以て、自ら之を揣れば、則ち聖賢の教を以て、必ず人情を矯むると為す。人情を矯むると為せば、則ち其の勢、吾を教ふるに曲と偽とを以てすと謂はざるを得ず。此れ乃ち曲学偽学の名の由りて起こる所なるか。

現代語訳

普通の人は天地を窮まりないものと見て、自分を束の間のものと見る。だから血気の盛んなうちに欲を存分に満たすことを務めとするだけである。ところが聖賢は、天地を窮まりないものと見るだけでなく、自分をもまた天地と見る。だから身の死を恨まず、心の死を恨む。心が死ななければ、天地と窮まりなさを争う。それゆえ一日を百年とし、心は深い淵に臨むように引き締まって、片時も放ち失わない。またそれゆえ、物によって志を移さず、欲によって寿命を引き延ばそうとせず、ただ人欲を去り天理を存することを求めるだけである。彼ら(常人)は天理を去り人欲を存する。天理を去り人欲を存することこそ常人の望むところであるから、人欲を去り天理を存せよという教えが、どうしてその耳と心に逆らわずにいられようか。彼らは耳と心に逆らうことを基準に自分で推しはかるので、聖賢の教えは必ず人情を曲げるものだと考える。人情を曲げるものだと考えれば、勢い「我々に曲がったことと偽りを教えている」と言わざるをえない。これこそ「曲学」「偽学」という名が起こったもとであろうか。

解説

本節は、常人と聖賢の死生観の違いから偽学の名の起こりを解く。常人は天地を無窮、己を暫時と見て、血気の盛んなうちに欲を満たそうとする。聖賢は己をも天地と見るので、身の死ではなく心の死を恨み、一日を百年として深淵に臨むように心を守る。人欲を去り天理を存する教えは常人の望みに逆らうため、人情を矯める曲と偽だと受け取られる、と中斎は言う。身の死より心の死を恨むという言葉は、生死を一にし太虚に帰すことを説く中斎の思想の核心に触れる。限りある時間を何に使うかを考えるとき、この対比は鋭い問いになる。

この章句が説くこと

天理人欲生死心偽学天地

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