洗心洞箚記 / 卷下・第百三條
歸時於大溝港口復買舟、予與所從之門生及家僮四人耳、更無同舟人、再泛湖、南向坂本、將還吾鄕、而自大溝至坂本、水程凡可八里、此卽我邦里數、而非異朝之里數也、當異朝之里數、則六十八九里矣、解纜結綃、旣未申際、而日晴浪靜、桑風只颯颯而已、至小松近傍、北風勃起、圍湖四山各飛聲、而狂瀾逆浪、或如百千怒馬衝陣、或如數仞雪山崩前、他舟船皆旣逃而無一有、其張帆至低三尺強、而乘其怒馬、踏其雪山、以直前勇往、如箭馳者、只是吾一舟而已矣、
新字:帰時於大溝港口復買舟、予与所従之門生及家僮四人耳、更無同舟人、再泛湖、南向坂本、将還吾郷、而自大溝至坂本、水程凡可八里、此即我邦里数、而非異朝之里数也、当異朝之里数、則六十八九里矣、解纜結綃、既未申際、而日晴浪静、桑風只颯颯而已、至小松近傍、北風勃起、囲湖四山各飛声、而狂瀾逆浪、或如百千怒馬衝陣、或如数仞雪山崩前、他舟船皆既逃而無一有、其張帆至低三尺強、而乗其怒馬、踏其雪山、以直前勇往、如箭馳者、只是吾一舟而已矣、
書き下し
帰る時大溝の港口に於て復た舟を買ふ。予と従ふ所の門生及び家僮と四人のみ、更に同舟の人無し。再び湖に泛び、南のかた坂本に向かひ、将に吾が郷に還らんとす。而して大溝より坂本に至るまで、水程凡そ八里可り。此れ即ち我が邦の里数にして、異朝の里数に非ざるなり。異朝の里数に当つれば、則ち六十八九里なり。纜を解き綃を結ぶは、既に未申の際にして、日晴れ浪静かに、桑風只だ颯颯たるのみ。小松の近傍に至りて、北風勃として起こり、湖を囲む四山各々声を飛ばし、而して狂瀾逆浪、或は百千の怒馬の陣を衝くが如く、或は数仞の雪山の前に崩るるが如し。他の舟船皆既に逃れて一も有る無し。其の帆を張ること低きに至りて三尺強、而して其の怒馬に乗り、其の雪山を踏みて、以て直前勇往し、箭の馳するが如き者は、只だ是れ吾が一舟のみ。
現代語訳
帰りに大溝の港口でまた舟を雇った。私と、従ってきた門生と家僕と、あわせて四人だけで、ほかに同乗の客はいない。再び湖に舟を浮かべ、南の坂本へ向かい、故郷へ帰ろうとした。大溝から坂本まで水路でおよそ八里ほどである。これは我が国の里数であって、中国の里数ではない。中国の里数に当てれば六十八、九里になる。ともづなを解き帆を張ったのは、すでに未申の刻(午後三時ごろ)で、日は晴れ波は静かで、そよ風がさらさらと吹くばかりであった。小松のあたりに来ると、北風がにわかに起こり、湖を囲む四方の山がそれぞれ音を立て、荒れ狂う大波が、あるいは百千の怒った馬が敵陣に突っ込むように、あるいは数仞の雪山が目の前で崩れるように押し寄せた。ほかの舟はみなすでに逃げて一艘もいない。帆を三尺あまりまで低く張り、その怒馬に乗り、その雪山を踏んで、まっすぐ勇んで進み、矢の走るように駆けているのは、ただ私たちの舟一艘だけであった。
解説
この章句が説くこと
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