洗心洞箚記 / 卷下・第九十二條
周子曰、明不至則疑生、明無疑也、又曰、聖人之道、至公而已矣、或曰、何謂也、曰、天地至公而已矣、謹考之、無欲則明矣、明則公矣、周子實踐之者也、分寧縣疑獄、周子一訊立辨、又吐殺人以媚人、吾不爲之之言、以忤長官、而活不當死之囚、此雖一官吏之事、其所出焉、則皆天地公而已矣、嗚呼、無欲主靜之功、豈淺小云乎哉、
新字:周子曰、明不至則疑生、明無疑也、又曰、聖人之道、至公而已矣、或曰、何謂也、曰、天地至公而已矣、謹考之、無欲則明矣、明則公矣、周子実践之者也、分寧県疑獄、周子一訊立弁、又吐殺人以媚人、吾不為之之言、以忤長官、而活不当死之囚、此雖一官吏之事、其所出焉、則皆天地公而已矣、嗚呼、無欲主静之功、豈浅小云乎哉、
書き下し
周子曰く、明至らざれば則ち疑ひ生ず。明なれば疑ひ無きなりと。又曰く、聖人の道は、至公のみと。或ひと曰く、何の謂ぞやと。曰く、天地は至公のみと。謹んで之を考ふるに、無欲なれば則ち明なり。明なれば則ち公なり。周子は実に之を践む者なり。分寧県の疑獄、周子一たび訊ねて立ちどころに弁ず。又人を殺して以て人に媚ぶるは、吾為さずの言を吐きて、以て長官に忤ひて、当に死すべからざるの囚を活かす。此れ一官吏の事と雖も、其の出づる所は、則ち皆天地の公のみ。嗚呼、無欲主静の功、豈に浅小と云はんや。
現代語訳
周子(周敦頤)は言った。「明らかさが至らなければ疑いが生じる。明らかであれば疑いはない」。また言った。「聖人の道は至公にほかならない」。ある人が「どういう意味か」と問うと、「天地は至公にほかならない」と言った(『通書』)。謹んでこれを考えると、無欲であれば明らかであり、明らかであれば公正である。周子はまさにこれを実践した人である。分寧県の長く決着しない裁判を、周子は一度取り調べただけでたちどころに裁いた。また「人を殺して人に媚びることを、私はしない」という言葉を吐いて長官に逆らい、死罪にすべきでない囚人を生かした。これは一官吏の事であっても、その出どころは、みな天地の公にほかならない。ああ、無欲と主静の功は、どうして浅く小さいと言えようか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第八十九條周子曰く、孟子曰く、心を養ふは寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も寡しと。予謂へらく、心を養ふは寡くして存するに止まらざるのみ。蓋し寡くして以て無に至る。無なれば則ち誠立ち明通ず。誠立つは賢なり、明通ずるは聖なり。是れ聖賢は性生に非ず、必ず心を養ひて之に至る。心を養ふの善、大なること此の如き有り、其の人に存するのみと。三たび周子の此の語を復せば、則ち太極図説の、之を定むるに中正仁義を以てして静を主とし人極を立つるの義、此に加ふる莫し。何となれば、心を養ひて以て無に至る、即ち無欲なり。無欲は即ち静なり。誠立ち明通ずれば、則ち仁義皆是れ其の事実のみ。是の故に誠明の外に、別に中正仁義有るに非ざるなり。而して聖賢と為れば、則ち其の心既に太虚に帰す。太虚は即ち無極の謂なり。無極は即ち亦人極なり。是の故に聖賢の外に、別に人極有るに非ざるなり。是に由りて之を観れば、則ち太極図説、統括して皆此の語の中に在り。
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『洗心洞箚記』卷下・第八十九條故に人聖学に志す者は、無に至るを以て的と為して、実功を下せば、則ち元公の人品為ること能はずと雖も、又必ず明道伊川の下風に立たん。如し明道伊川の下風に立つを得ば、則ち亀山上蔡等と即ち儔匹たらん。然らば則ち彼の欲路上の大英雄と孰与(いづれ)ぞ。欲路上の大英雄は、志を一時に得と雖も、醜を千歳に流し、父母の名を毀り、禽獣の為を踰ゆ。三尺の童子と雖も、其の悪に切歯す。而して無欲上の人は、亀山上蔡と雖も、或いは廟庭に従祀せられ、或いは郷賢に祭饗せらる。身を一時に困しむと雖も、徳を万世に輝かして、綱常を扶植するの主と為る。令名其の父母に及ぶ。而るを況や明道伊川をや。而るを況や元公をや。愚夫婦は固より論ずる無し。眼一丁を知る者は、宜しく択びて志を立て、以て無欲上の人と為るべし。而して世之を目して迂と為す。然れども諸を古今に推し、之を天地に質せば、則ち誠に智にして迂に非ず。其の此の言を為す者は、真に愚なるのみ。亦奚ぞ比数するに足らんや。嗚呼、無欲は、聖功なるかな。
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『呻吟語』外篇・聖賢・聖は私無しと云ふに如かず周子謂ふ、「聖は學ぶ可きか。曰く欲無し」と。愚謂へらく聖人は欲無き能はず、七情の中に合下欲有り。孔子曰く己立たんと欲し達せんと欲すと。孟子に云ふ有り、「廣土眾民は、君子之を欲す」と。天欲は無かる可からず、人欲は有る可からず。天欲は、公なり。人欲は、私なり。周子云ふ「聖は欲無し」と。愚云ふ、「聖は私無しと云ふに如かず」と。此の二字は、三氏の異なる所以なり。
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『洗心洞箚記』卷上・第三條諸を身に本づけ、諸を庶民に徴し、諸を三王に考へて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひ無く、百世以て聖人を俟ちて惑はず。人の一言一動、必ず此の如くにして後に心性晶亮広大にして、天地日月と一般なり。若し私情に従ひ、我が意に任せて、以て言動せば、則ち胸に万巻を富むと雖も、要は書庫のみ。貴ぶに足らざるなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十一條周子曰く、誠は、聖人の本なり。大いなるかな乾元、万物資りて始む、誠の源なり。乾道変化して、各性命を正す、誠斯に立つ。純粋至善なる者なり。故に曰く、一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なりと。元亨は、誠の通なり。利貞は、誠の復なり。大いなるかな易や、性命の源かと。又曰く、聖は誠のみ。誠は五常の本、百行の源なり。静には無にして動には有り、至正にして明達なり。五常百行、誠に非ざれば非なり、邪暗塞なり。故に誠なれば則ち事無し。至易にして行ふこと難し。果にして確なれば、難きこと無し。故に曰く、一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰すと。又曰く、誠は無為、幾は善悪と。又曰く、寂然として動かざる者は、誠なり。感じて通ずる者は、神なり。動きて未だ形はれず、有無の間なる者は、幾なり。誠は精なるが故に明なり、神は応ずるが故に妙なり、幾は微なるが故に幽なり。誠神幾なるを聖人と曰ふと。
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『洗心洞箚記』卷下・第八十三條董子曰く、其の誼を正して、其の利を計らず、其の道を明らかにして、其の功を計らずと。宋の大儒范内翰祖禹毎に之を荘誦し、人に謂ひて曰く、君子身を行ひ朝に立つは当に此の如くなるべし、若し夫れ成功は則ち天なりと。而して朱子も亦之を採りて以て其の小学に書し、以て白鹿洞の学則に掲ぐ。故に人口に膾炙すること幾百年茲に於てす。而して其の誼を正し道を明らかにするの訓、何ぞ之を口にする者多くして、之を躬行する者少きや。其の然る所以を究むれば他に非ず、只功を計り利を計るの慾有るを以てなり。而して中人以下は斯の慾無きに至ること能はず。然れども真に学に志す者は、則ち先づ斯の慾を去らざるべからず。斯の慾を去るの工夫も、亦只其の義に当りては其の身の禍福生死を顧みずして、果敢に之を行ひ、其の道に当りては、其の事の成敗利鈍を問はずして、公正に之を履む。則ち其の慾日に薄くして、道義終に家常の茶飯と為らん。此れ虚言に非ず。漢に在りては諸葛武侯、唐に在りては二顔、宋に在りては文謝、明に在りては劉黄、是れ皆道義を以て茶飯と為す者なり。学者如し亦此に至れば、則ち庶幾くは江都紫陽二子の後人に貽る所の意に酬いん。
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