洗心洞箚記 / 卷下・第八十九條
故人志於聖學者、以至於無爲的、而下實功、則雖不能爲元公人品、又必立乎明道伊川之下風矣、如得立乎明道伊川之下風、則與龜山上蔡等卽爲儔匹矣、然則孰與彼欲路上之大英雄、欲路上大英雄、雖得志於一時、而流醜於千歲、毀父母之名、踰禽獸之爲、雖三尺童子、切齒於其惡矣、而無欲上之人者、雖龜山上蔡、或從祀廟庭、或祭饗鄕賢、雖困身於一時、輝德於萬世、而爲扶植綱常之主焉、令名及其父母矣、而況明道伊川乎、而況元公乎、愚夫婦固無論矣、眼知一丁者、宜擇焉立志、以爲無欲上之人、而世目之爲迂、然推諸古今、質之天地、則誠智而非迂矣、其爲此言者、眞愚而已矣、亦奚足比數也、嗚呼、無欲、聖功矣哉、
新字:故人志於聖学者、以至於無為的、而下実功、則雖不能為元公人品、又必立乎明道伊川之下風矣、如得立乎明道伊川之下風、則与亀山上蔡等即為儔匹矣、然則孰与彼欲路上之大英雄、欲路上大英雄、雖得志於一時、而流醜於千歳、毀父母之名、踰禽獣之為、雖三尺童子、切歯於其悪矣、而無欲上之人者、雖亀山上蔡、或従祀廟庭、或祭饗郷賢、雖困身於一時、輝徳於万世、而為扶植綱常之主焉、令名及其父母矣、而況明道伊川乎、而況元公乎、愚夫婦固無論矣、眼知一丁者、宜択焉立志、以為無欲上之人、而世目之為迂、然推諸古今、質之天地、則誠智而非迂矣、其為此言者、真愚而已矣、亦奚足比数也、嗚呼、無欲、聖功矣哉、
書き下し
故に人聖学に志す者は、無に至るを以て的と為して、実功を下せば、則ち元公の人品為ること能はずと雖も、又必ず明道伊川の下風に立たん。如し明道伊川の下風に立つを得ば、則ち亀山上蔡等と即ち儔匹たらん。然らば則ち彼の欲路上の大英雄と孰与(いづれ)ぞ。欲路上の大英雄は、志を一時に得と雖も、醜を千歳に流し、父母の名を毀り、禽獣の為を踰ゆ。三尺の童子と雖も、其の悪に切歯す。而して無欲上の人は、亀山上蔡と雖も、或いは廟庭に従祀せられ、或いは郷賢に祭饗せらる。身を一時に困しむと雖も、徳を万世に輝かして、綱常を扶植するの主と為る。令名其の父母に及ぶ。而るを況や明道伊川をや。而るを況や元公をや。愚夫婦は固より論ずる無し。眼一丁を知る者は、宜しく択びて志を立て、以て無欲上の人と為るべし。而して世之を目して迂と為す。然れども諸を古今に推し、之を天地に質せば、則ち誠に智にして迂に非ず。其の此の言を為す者は、真に愚なるのみ。亦奚ぞ比数するに足らんや。嗚呼、無欲は、聖功なるかな。
現代語訳
だから聖学に志す者が、無に至ることを的として実際の工夫を積めば、元公(周敦頤)の人品にはなれなくても、必ず明道(程顥)・伊川(程頤)の下風には立てるだろう。もし明道・伊川の下風に立てれば、亀山(楊時)・上蔡(謝良佐)らと肩を並べることになる。それなら、あの欲の道の上の大英雄と比べてどちらがよいか。欲の道の大英雄は、一時は志を得ても、千年に醜名を流し、父母の名をけがし、禽獣の行いをも越える。三尺の子どもでさえ、その悪には歯ぎしりする。一方、無欲の道の上の人は、亀山・上蔡でさえ、あるいは孔子廟に従祀され、あるいは郷里の賢人として祭られる。一時は身を苦しめても、徳を万世に輝かせ、人倫の綱常を支え立てる主となる。良い名声はその父母にまで及ぶ。まして明道・伊川はなおさらであり、まして元公はなおさらである。愚かな庶民はもとより論じるまでもない。一字でも字を知る者は、よく選んで志を立て、無欲の道の上の人となるべきである。世間はこれを迂遠と見るが、古今に推し量り天地に問えば、まことに智であって迂遠ではない。そう言う者こそ本当に愚かなだけであり、どうして数に入れるに足りようか。ああ、無欲こそ聖人の功であることよ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第九十二條周子曰く、明至らざれば則ち疑ひ生ず。明なれば疑ひ無きなりと。又曰く、聖人の道は、至公のみと。或ひと曰く、何の謂ぞやと。曰く、天地は至公のみと。謹んで之を考ふるに、無欲なれば則ち明なり。明なれば則ち公なり。周子は実に之を践む者なり。分寧県の疑獄、周子一たび訊ねて立ちどころに弁ず。又人を殺して以て人に媚ぶるは、吾為さずの言を吐きて、以て長官に忤ひて、当に死すべからざるの囚を活かす。此れ一官吏の事と雖も、其の出づる所は、則ち皆天地の公のみ。嗚呼、無欲主静の功、豈に浅小と云はんや。
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『呻吟語』外篇・聖賢・聖は私無しと云ふに如かず周子謂ふ、「聖は學ぶ可きか。曰く欲無し」と。愚謂へらく聖人は欲無き能はず、七情の中に合下欲有り。孔子曰く己立たんと欲し達せんと欲すと。孟子に云ふ有り、「廣土眾民は、君子之を欲す」と。天欲は無かる可からず、人欲は有る可からず。天欲は、公なり。人欲は、私なり。周子云ふ「聖は欲無し」と。愚云ふ、「聖は私無しと云ふに如かず」と。此の二字は、三氏の異なる所以なり。
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『洗心洞箚記』卷下・第八十九條周子曰く、孟子曰く、心を養ふは寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も寡しと。予謂へらく、心を養ふは寡くして存するに止まらざるのみ。蓋し寡くして以て無に至る。無なれば則ち誠立ち明通ず。誠立つは賢なり、明通ずるは聖なり。是れ聖賢は性生に非ず、必ず心を養ひて之に至る。心を養ふの善、大なること此の如き有り、其の人に存するのみと。三たび周子の此の語を復せば、則ち太極図説の、之を定むるに中正仁義を以てして静を主とし人極を立つるの義、此に加ふる莫し。何となれば、心を養ひて以て無に至る、即ち無欲なり。無欲は即ち静なり。誠立ち明通ずれば、則ち仁義皆是れ其の事実のみ。是の故に誠明の外に、別に中正仁義有るに非ざるなり。而して聖賢と為れば、則ち其の心既に太虚に帰す。太虚は即ち無極の謂なり。無極は即ち亦人極なり。是の故に聖賢の外に、別に人極有るに非ざるなり。是に由りて之を観れば、則ち太極図説、統括して皆此の語の中に在り。
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『洗心洞箚記』卷下・第八十三條董子曰く、其の誼を正して、其の利を計らず、其の道を明らかにして、其の功を計らずと。宋の大儒范内翰祖禹毎に之を荘誦し、人に謂ひて曰く、君子身を行ひ朝に立つは当に此の如くなるべし、若し夫れ成功は則ち天なりと。而して朱子も亦之を採りて以て其の小学に書し、以て白鹿洞の学則に掲ぐ。故に人口に膾炙すること幾百年茲に於てす。而して其の誼を正し道を明らかにするの訓、何ぞ之を口にする者多くして、之を躬行する者少きや。其の然る所以を究むれば他に非ず、只功を計り利を計るの慾有るを以てなり。而して中人以下は斯の慾無きに至ること能はず。然れども真に学に志す者は、則ち先づ斯の慾を去らざるべからず。斯の慾を去るの工夫も、亦只其の義に当りては其の身の禍福生死を顧みずして、果敢に之を行ひ、其の道に当りては、其の事の成敗利鈍を問はずして、公正に之を履む。則ち其の慾日に薄くして、道義終に家常の茶飯と為らん。此れ虚言に非ず。漢に在りては諸葛武侯、唐に在りては二顔、宋に在りては文謝、明に在りては劉黄、是れ皆道義を以て茶飯と為す者なり。学者如し亦此に至れば、則ち庶幾くは江都紫陽二子の後人に貽る所の意に酬いん。
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『洗心洞箚記』卷上・第百十一條利欲紛挙するの時に当りて、致良知を以て斆学と為すは、実に迂愚に庶し。然り而して之を舎つれば以て復た性を為す人の道無し。故に天地の為に心を立て、万世の為に太平を開くの志有る者に非ずんば、孰か能く真に之を斆学せんや。故に姚江の師弟の外、未だ嘗て其の人を見ざるなり。
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『洗心洞箚記』卷上・第百六十九條朱子之に歎服す。是の故に儒者降威の者を去るの工著実ならずして、釈氏の之を悪むの原を察せず、只漫りに異端を以て釈氏を貶せば、則ち釈氏必ず儒を目するに穢濁を以てせん。是を以て聖経賢伝、字字句句、只人欲を去るの事を以て後人に告ぐるのみ。後人之を忽にするは何ぞや。故に吾輩晩年末路、乃ち釈氏の如くにして、稍聖賢の彀率に入る。否ざれば多く其の惑溺する所と為りて、立つる所の志、勉むる所の功、廃堕墜壊して、終に庸常の帰と為らん。故に南軒の説に遵ひて、又泥みて志勉を廃墜すること勿くんば、則ち善く学ぶと謂ふべきのみ。
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