洗心洞箚記 / 卷上・第三條
本諸身、徵諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑、人一言一動、必如此而後心性晶亮廣大、與天地日月一般、若從私情、任我意、以言動、則雖胸富萬卷、要書庫而已、不足貴也、
新字:本諸身、徴諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑、人一言一動、必如此而後心性晶亮広大、与天地日月一般、若従私情、任我意、以言動、則雖胸富万巻、要書庫而已、不足貴也、
書き下し
諸を身に本づけ、諸を庶民に徴し、諸を三王に考へて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひ無く、百世以て聖人を俟ちて惑はず。人の一言一動、必ず此の如くにして後に心性晶亮広大にして、天地日月と一般なり。若し私情に従ひ、我が意に任せて、以て言動せば、則ち胸に万巻を富むと雖も、要は書庫のみ。貴ぶに足らざるなり。
現代語訳
「自分の身に根ざし、民衆に照らして確かめ、三王(夏・殷・周の開祖)に考え合わせて誤らず、天地に打ち立てて背かず、鬼神に問いただして疑いなく、百世の後に聖人を待っても迷わない」(『中庸』)。人の一言一動は、必ずこのようであって初めて、心性が透きとおって広大になり、天地や日月と同じになる。もし私情に従い、自分の思いのままに言動すれば、胸に万巻の書を蓄えていても、要するにただの書庫にすぎず、貴ぶに足りない。
解説
『中庸』第二十九章の、君子の道を身・民・先王・天地・鬼神・後世に照らして確かめるという一節を引き、日々の一言一動をその水準で吟味せよと説く。そうして初めて心は澄み広がり天地日月と等しくなるが、私情や我意で動くなら、どれほど博識でも書庫にすぎない。知識の量より、言動を私心なく点検する工夫を重んじる陽明学らしい立場である。資格や知識を積み上げても、判断の場で自分の都合を優先すれば信頼は得られないという、職業人への戒めとして読める。
この章句が説くこと
中庸心性私情学問修己誠
関連する章句
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『弁名』誠聖人の道に於ける、皆思はずして得、勉めずして中る。故に至誠を以て之を称す。「之を誠にする」とは、先王の道を学び、久しくして之と化し、習慣天性の如くなれば、則ち其の初め知らず能はざる所の者も、今は皆思はずして得、勉めずして中るを謂ふ。是れ学習の力に出づ。故に「之を誠にするは人の道なり」と曰ふ。道は外に在り、性は我に在り。習慣天性の若くなれば、道と性と合して一と為る。故に「外内を合するの道なり」と曰ふ。故に其の大要は学びて以て徳を成すに在り。徳を成せば則ち能く誠なり。是れ中庸の誠を言ふの大略なり。大学の「誠意」も亦た爾り。物格れば則ち知至りて自然に意誠なるを謂ふなり。其の功を用ふるは全く格物に在りて、知至以下は皆其の効のみ。文言の所謂「辞を修め其の誠を立つ」も、亦た礼楽を学びて以て徳を成すを謂ふのみ。
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『童子問』卷上童子曰く、甚だしいかな学問の大なるや。願はくは其の詳を聞かんと。曰く、宋明の儒先皆性を尽くすを以て極則と為して、学問の功の益大なることを知らず。殊に知らず、己の性は限り有りて、天下の道は窮まり無きことを。限り有るの性を以て、窮まり無きの道を尽くさんと欲す。則ち学問の功に非ざれば、得べからざるなり。此れ孔門の専ら教を貴ぶ所以なり。中庸に曰く、唯だ天下の至誠のみ、能く其の性を尽くすと為す。能く其の性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛くべし。以て天地の化育を賛くべければ、則ち以て天地と参なるべしと。所謂能く其の性を尽くすとは、吾が性の分内に就きて言ふ。其の人物の性を尽くして、天地の化育を賛くるに至りては、則ち亦た我が性を尽くすの推しと雖も、豈に徒らに我が性を尽くすのみならんや。夫れ人の我に与ける、体を異にし気を殊にして、其の疾痛病癢、皆相関らず。況んや人の物に与ける、類を異にし形を殊にす、何ぞ相干渉せん。財成輔相して天地の道に、万物をして各其の性を遂げしむと謂ふは、則ち可なり。之を我が性を尽くすと謂ひて、可ならんや。然らば則ち唯だ我が性を尽くすのみにして、学問の功に由るに非ずんば、得べからざること明らかなり。
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『弁名』中庸和衷中庸・中和と曰ふが如きは、皆徳の名なり。中庸は、甚だ高からずして常に行ふべき者を謂ふ。孝弟忠信の如き是れなり。孔子の時、礼楽興らずして、民中庸の徳有ること鮮し。故に孔門の学は、中庸を以て要と為す。諸を「遠きに行くは必ず邇きよりし、高きに登るは必ず卑きよりす」に辟ふ。所謂高明・精微・広大なる者は、皆中庸より之を導く。故に子思曰く「中庸に道る」と。中庸の徳有りと雖も、苟も道を学ばざれば、則ち以て君子と為すに足らず。故に孔子は民を以て之を言ふ。又た「小人の中庸」及び「中庸を択ぶ」の文有り。戦国の時、又た「其の材中庸に及ばず」の言有り。世俗流伝して、其の本義に非ずと雖も、亦た以て古言を見るべきのみ。庸の字の如きは、楽徳に亦た祇庸有り。之を神祇に用ふる者を祇と為し、之を民に用ふる者を庸と為す。書の所謂「庸庸祇祇」も亦た然り。民の功を庸と曰ふ。豈に易らざるの義ならんや。宋儒は辞に昧く、務めて精微の解を為し、亦た以て聖人の道に命く。誤れり。
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『酔古堂剣掃』集法・之を合すれば雙美晉人の清談、宋人の理學、晉人を以て俗を遺れ、宋人を以て躬を禔む。之を合すれば雙美、之を分かてば兩傷なり。
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『童子問』卷上問ふ、既に聖人の道は知り易く行ひ易しと聞く。何ぞ人の之を能くする者鮮きや。豈に亦た甚だ難き所の者有るかと。曰く、有り。中庸に依るを難しと為す。中庸は本難事に非ず。中庸に依るの難きは、亦た誠を立つるの難きに在るなり。古の人も豈に亦た人人皆善く、事事皆中ることを得んや。但だ民朴にして俗淳く、誠実敦龐にして、邪回の行ひ無く、名利の求め無し。故に行ふ所自ら中庸に非ざること莫きなり。故に曰く、中庸の徳為るや、至れるかな、民鮮きこと久しと。後世に至りては、則ち風気日に漓く、人心古ならず。愚者は固より論ずるに足らず。其の少しく智有る者は、必ず利名を以て先と為し、常を厭うて新を好み、邇きを捨てて遠きを求む。是れ中庸の難き所以なり。故に曰く、天下国家も均しくすべきなり、爵禄も辞すべきなり、白刃も踏むべきなり、中庸は能くすべからざるなりと。是れ論語の極致なり。
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『君子訓』巻之上一真西山曰、人の君たるもの、大学を知らずんばあるべからず。人の臣たるもの、大学を知らずんばあるべからずと言へり。君も臣も、身を修め国家天下を治むる道、大学の書にそなはれり。是を読みて受用せずんばあるべからず。又中庸の九経に、身を修め人を治むる道備れり、考ふべし。此二書を能く読みて、受用し行はば、外に求めずとも、其要は此うちにあるべし。
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