洗心洞箚記 / 卷下・第九十一條
是故無賢愚、志於學、則斷以是爲準的、則行於康莊大道上之人、而非踏於邪徑曲路者也、而其成不成亦命也已矣、君子不云命、只以義爲主、則以誠爲準的、義莫大焉、陽明先生曰、大學之要、誠意而已矣、以此也、而程朱居敬窮理之工、要亦歸乎誠而已矣、豈有他哉、而其學者靜坐、其子陽辟讀書、不知其勤惰、或放著冊子上、不知治心之工、是皆其末學之弊也、程朱之學而安有之哉、故湯潛菴先生曰、宋儒言主敬、陽明恐學者過於執著呆守一敬字、反是不敬、故敎人只提醒良知、吾謂不昏良知者、敬也、敬之所不執著者、良知也、要以歸乎誠爲準的而問學、則曰主敬亦可也、曰致良知亦可也、否則博學浩聞、卽門外乞兒也、反觀內省、卽葱嶺髡徒也、豈曰學於道哉、
新字:是故無賢愚、志於学、則断以是為準的、則行於康荘大道上之人、而非踏於邪径曲路者也、而其成不成亦命也已矣、君子不云命、只以義為主、則以誠為準的、義莫大焉、陽明先生曰、大学之要、誠意而已矣、以此也、而程朱居敬窮理之工、要亦帰乎誠而已矣、豈有他哉、而其学者静坐、其子陽辟読書、不知其勤惰、或放著冊子上、不知治心之工、是皆其末学之弊也、程朱之学而安有之哉、故湯潜菴先生曰、宋儒言主敬、陽明恐学者過於執著呆守一敬字、反是不敬、故教人只提醒良知、吾謂不昏良知者、敬也、敬之所不執著者、良知也、要以帰乎誠為準的而問学、則曰主敬亦可也、曰致良知亦可也、否則博学浩聞、即門外乞児也、反観内省、即葱嶺髡徒也、豈曰学於道哉、
書き下し
是の故に賢愚と無く、学に志せば、則ち断じて是を以て準的と為す。則ち康荘大道の上を行くの人にして、邪径曲路を踏む者に非ざるなり。而して其の成不成も亦命なるのみ。君子は命を云はず、只義を以て主と為す。則ち誠を以て準的と為す、義焉より大なるは莫し。陽明先生曰く、大学の要は、誠意のみと。此を以てなり。而して程朱居敬窮理の工も、要するに亦誠に帰するのみ。豈に他有らんや。而して其の学者静坐し、其の子陽辟して書を読み、其の勤惰を知らず、或いは冊子の上に放著して、心を治むるの工を知らず。是れ皆其の末学の弊なり。程朱の学にして安んぞ之有らんや。故に湯潜菴先生曰く、宋儒は主敬を言ふ。陽明は学者の一の敬の字を執著呆守するに過ぎて、反つて是れ不敬なるを恐る。故に人に教へて只良知を提醒せしむ。吾謂へらく、良知を昏まさざる者は、敬なり。敬の執著せざる所の者は、良知なりと。要するに誠に帰するを以て準的と為して問学すれば、則ち主敬と曰ふも亦可なり、致良知と曰ふも亦可なり。否ずんば則ち博学浩聞も、即ち門外の乞児なり。反観内省も、即ち葱嶺の髡徒なり。豈に道を学ぶと曰はんや。
現代語訳
だから賢い者も愚かな者も区別なく、学に志すなら、断固としてこれ(誠)を目標とすべきである。そうすれば大通りの大道を行く人であって、邪な小道や曲がった道を踏む者ではない。そして成就するかしないかは命である。君子は命を口にせず、ただ義を主とする。誠を目標とすること、これより大きな義はない。陽明先生が「『大学』の要は誠意にほかならない」と言ったのは、このためである。そして程朱の居敬・窮理の工夫も、要するに誠に帰するだけである。ほかに何があろうか。ところがその学徒は(ただ)静坐し、また読書を表向き退けて(?)、その勤めか怠りかもわからず、あるいは書物の上に放り出して、心を治める工夫を知らない。これはみな末流の学の弊害である。程朱の学にどうしてそのようなことがあろうか。だから湯潜菴先生(湯斌)は言った。「宋儒は主敬を言う。陽明は、学ぶ者が敬の一字に執着して頑なに守りすぎ、かえって不敬になることを恐れた。だから人に教えて、ただ良知を呼び覚まさせたのだ。私が思うに、良知を昏ませないことが敬であり、敬が執着しないところが良知である」。要するに誠に帰することを目標として学問すれば、主敬と言ってもよく、致良知と言ってもよい。そうでなければ、博く学び多く聞いても門の外の乞食であり、内を顧み省みても葱嶺を越えてきた頭を剃った僧(禅僧)にすぎない。どうして道を学ぶと言えようか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第百三條伊川先生の涪州の行は、乃ち其の厄なり。其の江を渡るや、中流にて船幾ど覆らんとし、舟中の人皆号哭す。先生独り襟を正し安坐して常の如し。已にして岸に及ぶ。同舟に老父有り、問ひて曰く、危ふき時に当たりて、君独り怖るる色無きは、何ぞや、と。曰く、心に誠敬を存するのみ、と。老父曰く、心に誠敬を存するは、固より善し。然れども無心に若かず、と。先生之と言はんと欲するも、老父径ちに去りて顧みず。此の事は儒林文苑中の旧き説話にして、人の口耳に在りて既已に腐爛せり。宜しく語らざるべき者に似たり。然れども人其の境に遭へば、則ち孰か心寒え股栗すること無くして其の度を失はざる者ならんや。故に口耳に在りて既已に腐爛すと雖も、又当に故きを温めて新しきを知るべし。是れ乃ち善く学ぶと謂ふべきなり。
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言志四録・言志晩録 別存 第三十七条 只だ是れ一誠公曰く、「人道の上を敬ひ下を愛するは、只だ是れ一誠のみ。事ふべからざるの君父無く、使ふべからざるの臣子無し」と。
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言志四録・言志耋録 第九十九条 立誠は竪、居敬は横誠を立つるは、柱礎に似たり、是れ竪の工夫なり。敬に居るは、棟梁に似たり、是れ横の工夫なり。
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言志四録・言志耋録 第九十二条 坦蕩蕩の容坦蕩蕩の容は、常惺惺の敬より来る。常惺惺の敬は、活潑潑の誠より出づ。
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