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洗心洞箚記 / 卷下・第八十九條

周子曰、孟子曰、養心莫善於寡欲、其爲人也寡欲、雖有不存焉者寡矣、其爲人也多欲、雖有存焉者寡矣、予謂養心不止於寡焉而存耳、蓋寡焉以至於無、無則誠立明通、誠立賢也、明通聖也、是聖賢非性生、必養心而至之、養心之善、有大焉如此、存乎其人而已、三復周子此語、則太極圖說、定之以中正仁義而主靜立人極之義、莫加此、何者、養心以至於無、卽無欲也、無欲卽靜也、誠立明通、則仁義皆是其事實耳、是故非誠明之外、別有中正仁義也、而爲聖賢、則其心旣歸乎太虛、太虛卽無極之謂也、無極卽亦人極也、是故非聖賢之外、別有人極也、由是觀之、則太極圖說、統括皆在此語中矣、

新字:周子曰、孟子曰、養心莫善於寡欲、其為人也寡欲、雖有不存焉者寡矣、其為人也多欲、雖有存焉者寡矣、予謂養心不止於寡焉而存耳、蓋寡焉以至於無、無則誠立明通、誠立賢也、明通聖也、是聖賢非性生、必養心而至之、養心之善、有大焉如此、存乎其人而已、三復周子此語、則太極図説、定之以中正仁義而主静立人極之義、莫加此、何者、養心以至於無、即無欲也、無欲即静也、誠立明通、則仁義皆是其事実耳、是故非誠明之外、別有中正仁義也、而為聖賢、則其心既帰乎太虚、太虚即無極之謂也、無極即亦人極也、是故非聖賢之外、別有人極也、由是観之、則太極図説、統括皆在此語中矣、

書き下し

周子曰く、孟子曰く、心を養ふは寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も寡しと。予謂へらく、心を養ふは寡くして存するに止まらざるのみ。蓋し寡くして以て無に至る。無なれば則ち誠立ち明通ず。誠立つは賢なり、明通ずるは聖なり。是れ聖賢は性生に非ず、必ず心を養ひて之に至る。心を養ふの善、大なること此の如き有り、其の人に存するのみと。三たび周子の此の語を復せば、則ち太極図説の、之を定むるに中正仁義を以てして静を主とし人極を立つるの義、此に加ふる莫し。何となれば、心を養ひて以て無に至る、即ち無欲なり。無欲は即ち静なり。誠立ち明通ずれば、則ち仁義皆是れ其の事実のみ。是の故に誠明の外に、別に中正仁義有るに非ざるなり。而して聖賢と為れば、則ち其の心既に太虚に帰す。太虚は即ち無極の謂なり。無極は即ち亦人極なり。是の故に聖賢の外に、別に人極有るに非ざるなり。是に由りて之を観れば、則ち太極図説、統括して皆此の語の中に在り。

現代語訳

周子(周敦頤)は言った。「孟子は『心を養うには欲を少なくするより善いことはない。その人柄が欲少なければ、(本心が)保たれないことがあってもわずかである。その人柄が欲多ければ、保たれることがあってもわずかである』と言った。私が思うに、心を養うのは欲を少なくして保つだけにとどまらない。少なくしてついには無に至るのである。無であれば誠が立ち、明らかに通じる。誠が立つのは賢であり、明らかに通じるのは聖である。聖賢は生まれつきではなく、必ず心を養ってそこに至るのだ。心を養うことの善さはこのように大きく、それはその人次第である」(『養心亭説』)。周子のこの言葉を繰り返し唱えれば、『太極図説』の「これを定めるのに中正仁義をもってし、静を主として人極を立てる」の意味は、これに付け加えるものがない。なぜか。心を養って無に至るのが無欲であり、無欲は静である。誠が立ち明らかに通じれば、仁義はみなその事実にすぎない。だから誠と明のほかに、別に中正仁義があるのではない。そして聖賢となれば、その心はすでに太虚に帰している。太虚とは無極のことであり、無極はまた人極である。だから聖賢のほかに、別に人極があるのではない。これによって見れば、『太極図説』はすべてこの言葉の中に統括されている。

解説

周敦頤『養心亭説』の、孟子の寡欲をさらに進めて無欲に至れという言を引き、『太極図説』全体の要をそこに見る条の前半である。無欲は静であり、誠が立ち明が通じれば中正仁義はその事実となる。聖賢の心は太虚に帰し、太虚は無極、無極は人極だと中斎は連ねる。聖賢は生まれつきでなく心を養って至るという周子の言は、気質の変化を説く中斎の学の支えでもある。現代でも、欲を減らす努力は続けても、ゼロを目指すという発想は少ない。志の高さが工夫の深さを決める。

この章句が説くこと

無欲寡欲太虚静誠周敦頤

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