洗心洞箚記 / 卷下・第八十二條
董子曰、道之大原出於天、此一語、蓋眞儒之言也、故朱子取之、以入於中庸首章之註內、而其道也者、性命也、性命卽存乎方寸之心、而其原則在於天之太虛、故學而歸乎天之太虛、此是聖學之極功也、董子之學繼思孟、以此也、嗚呼、大哉、
新字:董子曰、道之大原出於天、此一語、蓋真儒之言也、故朱子取之、以入於中庸首章之註内、而其道也者、性命也、性命即存乎方寸之心、而其原則在於天之太虚、故学而帰乎天之太虚、此是聖学之極功也、董子之学継思孟、以此也、嗚呼、大哉、
書き下し
董子曰く、道の大原は天より出づと。此の一語、蓋し真儒の言なり。故に朱子之を取りて、以て中庸首章の註内に入る。而して其の道なる者は、性命なり。性命は即ち方寸の心に存す。而して其の原は則ち天の太虚に在り。故に学びて天の太虚に帰す、此れ是れ聖学の極功なり。董子の学思孟を継ぐは、此を以てなり。嗚呼、大なるかな。
現代語訳
董子(董仲舒)は「道の大いなる源は天から出る」と言った。この一語は、思うに真の儒者の言葉である。だから朱子はこれを取って、『中庸』首章の注の中に入れた。その道とは性命のことである。性命は胸の内の心にある。そしてその源は天の太虚にある。だから学んで天の太虚に帰する、これこそが聖学の極みの功である。董子の学が子思・孟子を継ぐというのは、このためである。ああ、大いなることよ。
解説
董仲舒の「道の大原は天より出づ」を、太虚の思想で読む短い条である。朱子が『中庸』首章の注に採ったこの語を、中斎は性命は方寸の心にあり、その源は天の太虚にあると敷衍し、学んで太虚に帰することを聖学の極功とする。漢の董仲舒を子思・孟子の継承者と位置づけるのは、中斎の太虚中心の道統観による。「太虚に帰す」が中斎思想の要であることがよくわかる。現代の言葉で言えば、自分の生き方の根を個人の欲より大きなものに置くことである。
この章句が説くこと
太虚道性命天董仲舒中庸
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