導師導古典を学びたいすべての人に

洗心洞箚記 / 卷下・第六十六條

韓昌黎曰、名之所存、謗之所歸也、夫有實德而有其譽、有實行而有其聲、則奚謗之招、如云爾、則無實德而有其譽、無實行而有其聲者也、謗之至、不亦宜乎、故許魯齋曰、無實而得譽、可乎、大譽則大毀至、小譽則小毀至、必然之理也、惟聖賢得譽、則無所可毀、大名之下難處、在聖賢則異於是、無於難處者、無實而得名、故難處、名美器也、造物者忌多取、非忌多取、忌夫無實而得名者、韓子學文而窺道者、故其言如彼、許子理學名儒、故其言如此、有虛名者、宜鑒韓子言以避之、無實名者、須憤許子言以立之、

新字:韓昌黎曰、名之所存、謗之所帰也、夫有実徳而有其誉、有実行而有其声、則奚謗之招、如云爾、則無実徳而有其誉、無実行而有其声者也、謗之至、不亦宜乎、故許魯斎曰、無実而得誉、可乎、大誉則大毀至、小誉則小毀至、必然之理也、惟聖賢得誉、則無所可毀、大名之下難処、在聖賢則異於是、無於難処者、無実而得名、故難処、名美器也、造物者忌多取、非忌多取、忌夫無実而得名者、韓子学文而窺道者、故其言如彼、許子理学名儒、故其言如此、有虚名者、宜鑒韓子言以避之、無実名者、須憤許子言以立之、

書き下し

韓昌黎曰く、名の存する所は、謗りの帰する所なりと。夫れ実徳有りて其の誉れ有り、実行有りて其の声有れば、則ち奚ぞ謗りを之れ招かん。如し爾云はば、則ち実徳無くして其の誉れ有り、実行無くして其の声有る者なり。謗りの至る、亦宜ならずや。故に許魯斎曰く、実無くして誉れを得、可ならんや。大誉は則ち大毀至り、小誉は則ち小毀至る、必然の理なり。惟だ聖賢誉れを得れば、則ち毀るべき所無し。大名の下処し難し、聖賢に在りては則ち是に異なり、処し難きこと無き者なり。実無くして名を得、故に処し難し。名は美器なり。造物者多く取ることを忌む。多く取ることを忌むに非ず、夫の実無くして名を得る者を忌むなりと。韓子は文を学びて道を窺ふ者、故に其の言彼の如し。許子は理学の名儒、故に其の言此の如し。虚名有る者は、宜しく韓子の言に鑑みて以て之を避くべし。実名無き者は、須らく許子の言に憤りて以て之を立つべし。

現代語訳

韓昌黎(韓愈)は「名声のあるところに、謗りが集まる」と言った。そもそも実の徳があってその誉れがあり、実の行いがあってその評判があるなら、どうして謗りを招こうか。そう言うのなら、それは実の徳がないのに誉れがあり、実の行いがないのに評判がある者のことである。謗りが来るのも当然ではないか。だから許魯斎(許衡)はこう言った。「実がないのに誉れを得てよいだろうか。大きな誉れには大きなそしりが来て、小さな誉れには小さなそしりが来る。必然の理である。ただ聖賢が誉れを得れば、そしるべきところがない。大きな名声のもとには身を処しがたいというが、聖賢の場合はそうではなく、処しがたいことはない。実がないのに名を得るから処しがたいのだ。名は美しい器である。造物者は多く取ることを嫌うというが、多く取ることを嫌うのではない、実がないのに名を得る者を嫌うのだ」。韓子は文章を学んで道をうかがった人だから、その言葉はあのようである。許子は理学の名儒だから、その言葉はこのようである。虚名のある者は、韓子の言葉を鏡として名を避けるべきである。実のある名のない者は、許子の言葉に奮い立って名を立てるべきである。

解説

名声と謗りの関係を、唐の韓愈と元の許衡の言で比べる条である。韓愈は名があれば謗りが来ると言うが、許衡は謗りを招くのは実のない名だけで、聖賢の名は毀られないと言う。中斎は文人と理学者の違いとして両者を位置づけ、虚名ある者は韓愈に学んで名を避け、実のない者は許衡に発憤して実を立てよと使い分ける。名実を厳しく問う中斎の学風が見える。現代でも、評判が実力を上回るときに批判は集まる。名を恐れるより実を積むことが先である。

この章句が説くこと

名実誉謗誠修己韓愈

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る