洗心洞箚記 / 卷下・第六十一條
下等之人、緣師友之資、強爲善者、譬如捧滿盂水者、心手微動、則不流洩于左、必流洩于右、不流洩于前、必流洩于後、是故宜自存臨深履薄之念於內、而師友父兄、常用扶醉漢之勞於外、則庶幾免於左右前後之流洩矣、
新字:下等之人、縁師友之資、強為善者、譬如捧満盂水者、心手微動、則不流洩于左、必流洩于右、不流洩于前、必流洩于後、是故宜自存臨深履薄之念於内、而師友父兄、常用扶酔漢之労於外、則庶幾免於左右前後之流洩矣、
書き下し
下等の人、師友の資に縁りて、強ひて善を為す者は、譬へば満盂の水を捧ぐる者の如し。心手微かに動けば、則ち左に流洩せずんば、必ず右に流洩す。前に流洩せずんば、必ず後に流洩す。是の故に宜しく自ら深きに臨み薄きを履むの念を内に存し、而して師友父兄、常に酔漢を扶くるの労を外に用ふべし。則ち庶幾くは左右前後の流洩を免れん。
現代語訳
資質の劣った人が、師や友の助けによって無理に善を行うのは、たとえば縁まで水の満ちた鉢を捧げ持つ者のようである。心や手がわずかに動けば、左にこぼれなければ必ず右にこぼれ、前にこぼれなければ必ず後ろにこぼれる。だから本人は内に、深い淵に臨み薄い氷を踏むような慎みの心を保ち、師友や父兄は外から、いつも酔っぱらいを支えるような骨折りをすべきである。そうすれば、左右前後にこぼれることをおおよそ免れるだろう。
解説
資質の弱い者が善を保つ難しさを、水を満たした鉢を捧げ持つ比喩で語る条である。わずかな心の揺れで善はこぼれる。だから本人は『詩経』小旻の「深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」の慎みを内に保ち、周囲の師友父兄は酔漢を支えるように外から助ける。内の工夫と外の支えの両方を求める点に、中斎の教育者としての現実感がある。現代でも、新しい習慣や立ち直りの途上にある人には、本人の自覚と周囲の伴走の両方が欠かせない。
この章句が説くこと
慎独修己師友善教育詩経
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