洗心洞箚記 / 卷下・第四十五條
孟子浩然之氣、於何處認識之、七篇中處處皆是也、而如見梁惠章尤彰彰焉、其千里而見梁惠、不亦勞乎、而答其利吾國之問、以何必曰利亦有仁義而已矣之一語、遏他慾、伸吾道、不肯顧其身之用不用、便是至大至剛也、便是浩然之氣也、又何認識之難之有、
新字:孟子浩然之気、於何処認識之、七篇中処処皆是也、而如見梁恵章尤彰彰焉、其千里而見梁恵、不亦労乎、而答其利吾国之問、以何必曰利亦有仁義而已矣之一語、遏他慾、伸吾道、不肯顧其身之用不用、便是至大至剛也、便是浩然之気也、又何認識之難之有、
書き下し
孟子の浩然の気、何れの処に於て之を認識せん。七篇の中、処処皆是なり。而して梁恵を見るの章の如きは尤も彰彰たり。其の千里にして梁恵を見る、亦労ならずや。而して其の吾が国を利せんの問に答ふるに、何ぞ必ずしも利を曰はん、亦仁義有るのみの一語を以てし、他の慾を遏(とど)め、吾が道を伸べ、其の身の用不用を顧みるを肯ぜず。便ち是れ至大至剛なり、便ち是れ浩然の気なり。又何ぞ之を認識するの難きこと之れ有らん。
現代語訳
孟子のいう浩然の気は、どこで見て取ればよいか。『孟子』七篇の中のいたるところがそれである。なかでも梁の恵王に会う章はとりわけはっきりしている。千里の道を来て恵王に会うのは、なんと骨の折れることではないか。それなのに「わが国を利するものがあるか」という問いに、「どうして利を言う必要があろう、ただ仁義があるだけだ」の一語で答え、相手の欲を押しとどめ、自分の道を述べ、自分が用いられるかどうかを顧みようとしなかった。これこそ至大至剛であり、浩然の気である。それを見て取るのに何の難しさがあろうか。
解説
浩然の気という抽象的な言葉を、『孟子』冒頭の梁恵王章という具体的な場面に見出す条である。遠路はるばる訪ねた相手に、採用されるかどうかを顧みず「仁義のみ」と言い切る。その態度こそ「至大至剛」の気だと中斎は言う。気は修養の神秘ではなく、利害の場面で道を曲げない振る舞いとして現れる。現代の組織でも、取引先や上司の利益要求に対し、自分の立場を顧みず筋を述べる場面がある。気概とはそうした一言に宿るものである。
この章句が説くこと
浩然の気仁義利孟子気修己
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